『青い野を歩く』クレア・キーガン(岩本正恵訳)

青い野を歩く (エクス・リブリス)

青い野を歩く (エクス・リブリス)

クレア・キーガンは、紛れもなくアイルランドの作家なのだろう。家族の不調和を描いても、聖と俗の葛藤を描いても、アイルランドの風景が現れる。日本に住んでいると聴くことの少ない植物の名前がたくさん出てくる。当然のように執り行われる慣習が少し奇異に映る。そこでは人物の心情も、自然との関わり合いの中で生まれ、自然へと放たれる。
文と文の接続は緩やかな因果関係しか持たない。心情の描写は少なく、何かを体内に押し留めているような印象をうける。登場人物たちは古い慣習に縛られていて、すべてを明瞭に語ってみることはできない。だから彼らは、そのもどかしさをアイルランドの風景に託す。淡々と並べられる風景の描写は、不親切なようで、登場人物にとっては唯一性をもつ。風景は彼らの記憶を喚起する。その土地で生まれ育ってきた記憶の痕跡を風景の隅々に見つけ出し、心情を結びつける。日本の郊外の風景を眺めながら登場人物たちのことを想像して切なくなった。


「別れの贈りもの」
二人称小説。まるで未来の自分が過去の自分に語りかけているみたいだ、と思った。家を出発するまでのいくつかのステップ。家族の不和と主人公の気丈さが背中合わせだから、感情の氾濫がこんなにも狂おしい。


「青い野を歩く」
結婚式で壇上に立つ神父。孤独をかみしめるために、過去を思い出しながら青い野を歩く。彼は浄化されることで解放されるようで、でもそのとき失われたものがとても愛おしくもある。


「長く苦しい死」
主人公の女性作家がハインリッヒ・ベルの家を借りて執筆しようとしているとドイツ人男性に声をかけられる、という話。主人公の無邪気さと暴力性。


「褐色の馬」
外見に現れない孤独。短い作品だけれど主人公の人物像が丁寧に描かれている。働き者の一日。彼は自分自身にも内面を隠している。


「森番の娘」
徐々に訪れる家族の崩壊。白痴の息子。聡明な娘。少しだけフォークナーを思い出した。家族はもうずっと前にだめになってしまっているけれど、誰もそれを積極的に壊そうと思わない。しかしやがて焼け落ちる。引き金になったのは犬だった。家族とその外部との境目で揺れ動く犬が、境目を取り去ってしまう。


「波打ち際で」
ハーバード大学に通う息子が、母に会いにテキサスにやってくる。そこには父もいる。息子はすべてを理解しているが、それでも感情がわだかまっている。海を泳いでみる。「長く苦しい死」の主人公も筆に詰まったとき海を泳いでいた。家族の状況は変わらないけれど、それでも少し気分が晴れる。


「降伏」
気難しい巡査部長の話。この作品集は家族の不和をテーマにした短編が多い。部下に難癖をつけ、オレンジを食べる。犠牲者さらに一名。


「クイックン・ツリーの夜」
これまでとは一風変わって寓話調。エピグラフケルト妖精物語。登場する動物や植物も今まで以上に不思議。マーガレットが去ってからスタックが元の生活に戻っていく様子が好きだった。「それに、ふたりのあいだには、彼にも容易に渡れるひとつづきの深い海があるだけだ」

「ソーシャルネットワーク」

フェイスブック創始者マーク・ザッカーバーグの成功の物語。
はじまりは「フェイスマッシュ」だった。当時ハーヴァード大学の学生だったザッカーバーグは、ハーヴァードの学生名鑑を利用して大学中の女子の顔写真を集め、そこからランダムに2枚ずつ表示される顔写真の優劣をつけていくことで女子の学生全員に序列をつけるというホームページ「フェイスマッシュ」を作った。そこには後にフェイスブックの共同設立者となるエドゥアルド・サベリンも、アルゴリズムの面で協力していた。フェイスマッシュは公開されて4時間で大学側に見つかり、ザッカーバーグはアクセス権を剥奪される。だが、深夜にもかかわらず4時間で大量のアクセスを集めたことは学生のあいだで評判になる。
彼の能力に目をつけたウィンクルボス兄弟は、ハーヴァード大学生限定のSNSをつくる計画にザッカーバーグを引き入れようとしたが、ザッカーバーグは彼らの計画を自分のものにしてSNSを開発し、フェイスブックとして公開する。ファイナルクラブの人脈を通して広まったフェイスブックは大学で評判となり、やがて他の大学にもユーザーを広げていった。ナップスターの設立者ショーン・パーカーを助言者として迎えてからは、フェイスブックは世界を見据えて拡大してゆく。ザッカーバーグはひとりの大学生からIT産業の次世代の担い手へと変化していく。
フェイスブックが成功していく過程では、たくさんの人がザッカーバーグに近づいては離れていった。ザッカーバーグが冷酷で友情を軽んじる人物であるという見方もできるが、それは正しくないと思う。周囲にいた人たちの誰一人としてザッカーバーグのパートナーになれなかったのは、彼が冷酷だったからではなく、世界の原理がそのようになっていたからだ*1。例えば、ザッカーバーグにアイデアを盗まれたウィンクルボス兄弟がボート競技で敗北を喫するさまが執拗に描かれているが、彼らはその後北京オリンピックで入賞するほどの活躍をしている。どれだけスポーツで成功しても、この映画の世界の中では、彼らはあくまで古い価値観に囚われた敗北者でしかないのだ。他にも、共同設立者のエドゥアルド・サベリンは広告掲載に拘ったため会社を追放される。ザッカーバーグの助言者ショーン・パーカーは祝賀会でドラッグを服用していたところを警察に見つかる。純粋な意志を忘れて名声や享楽を求めた者たちはすべからく世界から除外される。
フェイスブックの可能性に賭けて開発に集中するザッカーバーグは、この映画の世界において最も正しいと言える。彼はまぎれもなく天才だった。はじめは女性にふられたことを根にもつ冴えない大学生だったけれど、次第に彼の内面の描写は減っていった。天才の内面を直接描くことはできない、ということだと思う。あるいは、内面を失うことで天才になるのかもしれない。終盤には、彼の周囲ばかりが激しく動き回っていて、彼自身は世界の特異点のように浮遊して見えた。


視点をエドゥアルド・サベリンに移そう。この映画を見てからずっと、エドゥアルドのことばかり考えていた気がする。自分の頭のなかで彼の人物像がどんどん膨らんでいった。だから、以下は自分の妄想かもしれないと思いながら書く。
おそらくエドゥアルドは、誰よりもザッカーバーグの才能を信じていた。彼は、ザッカーバーグが天才であることを早くから見抜いていた。そしてまた、彼は自分が天才になれないことにも気がついていた。でも、天才にはなれなくても、天才のパートナーにはなれるのではないか。自分にはザッカーバーグに欠けた社会性や経済学の知識、そして財産がある。彼は冷徹に自己分析して自分の能力を見極め、そのうえで自分にできることを探していた。
そこまでザッカーバーグの才能を信じていたのに、なぜシリコンバレーに行かなかったか。しかし、ザッカーバーグが天才なのは事実でも、世の中の天才のうち実際に成功することができるのはほんの数パーセントだろう。エドゥアルドにはその小さな可能性に欠ける勇気がなかった。彼はフェニックスに入部したり、インターンに通ったり、けっきょくは保身に走ってしまった。
代わりにショーンがザッカーバーグのパートナーを務めるようになり、エドゥアルドは排除されてゆく。エドゥアルドは決定的に裏切られたのだと知ったとき、友情が裏切られたのだと言った。でも、裏切ったのは友情ではなく、殺伐とした世界の原理だったのだろう。エドゥアルドが去ったあとザッカーバーグは、これはやりすぎだと口にしている。
フェイスマッシュを作ったときの風景が甦ってくる。エドゥアルドがアルゴリズムを提供し、それをもとにザッカーバーグがプログラミングする。小さな寮の一室が世界に繋がっていく感覚。協力することで個人には不可能なことが可能になる昂揚感。彼はきっと、この風景がそのまま世界に拡大すればいいと思った。フェイスブックは世界に拡大した。彼は置いていかれた。

*1:このあたりの話はに影響を受けています。

『冬の夜ひとりの旅人が』イタロ・カルヴィーノ(脇功訳)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

イタロ・カルヴィーノの1979年の作品。冬の静けさを感じさせる素晴らしい作品だった。
「あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている」という奇妙な冒頭から作者は語り出す。まるで作者が読者に直接語りかけているかのように。でもやがて、作者が語りかけているのは厳密には読者自身ではなく、「男性読者」という一人のキャラクターだとわかってくる。「男性読者」は『冬の夜ひとりの旅人が』という小説をじっさいに読み始めるが、その小説はいま現実の読者が読んでいる『冬の夜ひとりの旅人が』とは別の小説だ。「男性読者」は作中作の『冬の夜ひとりの旅人が』に引き込まれてゆくが、困ったことにその小説は物語の途中で冒頭に返って同じ文章を繰り返し始める。このようにして「男性読者」はこのあともずっと、読み始めた小説は唐突に行き止まり、最後まで読むことができない。現実の方の『冬の夜ひとりの旅人が』は、読者が小説の続きを求めて彷徨する小説だというのが最も相応しい説明だと思う。
その書物が不良品であることに気づいた「男性読者」は、本屋に交換してもらいに行く。そこで彼は「女性読者」と出会う。彼女は会うたびに読みたい小説の特徴を述べるが、その特徴というのがいつも異なっている。そして彼女が述べるような特徴をもった小説の冒頭が挿入されるが、その小説は世界が動き始めたところで終わってしまう。「男性読者」と「女性読者」の遍歴の章と互いに独立した小説の冒頭とが交互に積み重ねられ、現実と虚構の境界を融解させながら、ときには不穏に、ときには幻想的に、作者は物語る。
「女性読者」は理想的な読者として登場する。書物に記してあることをそのまま読みとり、言葉を自己に同化させる。一方で彼女はひとりの魅力的な女性でもあり、神出鬼没に現れたり消えたりする。「男性読者」は彼女に恋心を抱く(ことを作者に半ば強要されている)。「男性読者」が世界中を奔走するのは小説の続きを読むためだけれど、それと同時に彼女を追いかけるためでもある。小説を理想的なかたちで読むこと・書くことが、彼女の存在へと辿り着くことそのものであり、辿り着くための手段でもある。小説と作者の関係を攪乱する翻訳者エルメス・マラーナや、小説を過剰に即物的に分析し定型的に読み解く「女性読者」の姉といった人物が登場し、理想的な小説を妨げようとする。小説の続きを書けなくなった作家サイラス・フラナリーは、書き手の立場から小説の続きを模索する。
「男性読者」が探し求める小説とは何だったのだろう。本当に小説には始まりと終わりが必要なのだろうか。挿入される10の小説の断片は終わりをもたないが、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説には結末が用意されている。「男性読者」は小説の断片の続きを読むことはできないまま、自分自身によって編み上げる小説を終わらせることを決断する。この小説は断片だったが、断片のまま有機的なまとまりをなして、始まりと終わりを得たのだと思う。
ここまでに書いたすべてのコメントは、個々のエピソードの面白さの前ではまったく意味をなさない。冒頭の読者への呼びかけに始まり、つねに読者を幻惑する仕掛けが絶えない。文体は特殊なレトリックは使われていないのに詩的で、冬の夜の空気の冷たさを想起させる。読み始めたら本を置くことを忘れてしまう。海外文学の多様な世界を凝縮したような小説だった。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ(柴田元幸訳)

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫

リチャード・パワーズのデビュー作。パワーズが20代のときに書いた作品と聞いて驚くと同時に、自分の持っているものすべてを注ぎ込むようなエネルギーは若さゆえかもしれないとも思う。
この小説は三つのパートからなる。ひとつは表紙にもなっているアウグスト・ザンダーの写真についての「私」の探究の記録。ひとつは1914年、その写真に写る三人の農夫が第一次世界大戦に巻き込まれてゆくさまを描く、空想か史実かはっきりしない記述。ひとつは現代の青年ピーター・メイズがオフィスの窓から見た赤い髪の女性を探してゆく過程で起こった出来事の描写。これら三つのパートが交互に語られてゆき、しだいに各パートの関連が見え始め、やがて収束してゆく。
この小説には至る所に引用や皮肉が登場する。隅から隅まで情報に彩られていて、これはいったい何の引用なのだろうと想像しているとまたすぐに新しい引用が出てくる。たぶん気づかずに通り過ごしている引用も多いだろう。情報の種類も多岐にわたっていて、物理や歴史や大衆文化など、高尚な話題からただの蘊蓄まで惜しみなく投入されている。その幅広さは各章ごとのエピグラフを読んでいくだけでも何となく伝わってくる。ヘンリー・フォードの言葉に始まって、ルネ・デュボスの引用のかっこよさには唸らされた。知らない著者や本の題名を見つけて検索するのが楽しかった。
ベンヤミン「技術的複製時代の芸術作品」を引用しながら写真論を提示するところが、個人的にはクライマックスのひとつだと思う。観察者と対象の区切りの不明確さ、あるいは観測の不可能性。ハイゼンベルグの不確定性定理によって明らかになった20世紀を貫く発見。こういうテーマは決して珍しいものではないし、他にもこのテーマを扱った小説は多いだろう。パワーズがすごいのは、これを写真論につなげて、カメラのレンズの向こうに、シャッターを切るザンダーの背景に、やがてその写真を見るだろう未来の群衆を幻視させたことだ。このシーンでは、この小説の三つのパートだけでなく、アメリカの歴史が、20世紀の総体がひとかたまりになって読者を襲い、そのまま通り抜けて遙か後方へと過ぎ去ってゆく。一気に歴史を追体験するような感動があった。
円城塔パワーズを好きな作家として挙げているのを何回か見かけたけれど、確かに共通する特徴がいくつかある。文体の反射的な運動神経のようなもの、物理学っぽい話題、アメリカの風景への愛着。円城塔が長い小説を書いているのは滅多に見ないけど、もし円城塔が長編を書いたらこんなふうかもしれないな、と思った。長編というのは、たとえばテーマの大きさやプロットの運び方といった点で短編とは別のパッケージング、ということだ。円城塔が長い小説を書く予感がしないので、たぶんこれはただの妄想で終わるだろうけれど。

『ハムレット・シンドローム』樺山三英

ハムレット・シンドローム (ガガガ文庫)

ハムレット・シンドローム (ガガガ文庫)

シェイクスピアの『ハムレット』において、デンマーク王子ハムレットは父が叔父に殺されたことを幽霊に教えられて、復讐を果たそうと決意する。叔父は父を継いで王位に居座り、母を后としていた。まず彼は気が狂ったふりをして叔父の真意を知ろうとする。だが、肝心の復讐は細々とした理由をつけてずるずると先延ばしにされ、最後は登場人物のほとんどが死ぬという悲劇的な結末を迎える。
ハムレット』は戯曲だから演じることを宿命づけられている。ハムレットを演じるのは、「気が狂ったふりをする」ふりをすることだ。演技することの自由に取り憑かれた子供たちは演技に演技を重ね、やがてどこに真実があるのか忘れてしまう。だからこの小説の真実は永久に知ることができない。何が起こり、誰が死に、誰が残ったのか。5人の語り手の誰一人として真実を共有していない。
語り手たちはコマツアリマサの城で語る。演技にのめりこむうちに着地点を見失ったコマツアリマサは、演技の迷宮を具現化してしまう。それが海岸にそびえ立つ巨大な城だ。コマツアリマサは自分がハムレットだと信じこんでいる。信じこんでいる演技をしているのかもしれない。語り手たちは城に迷いこむ。
ハムレット・シンドローム』における悲劇は、登場人物たちの運命が『ハムレット』の悲劇を部分的になぞっていくことだけではなく、演技の重なりを迷宮と捉えてしまったことにある。自由を手に入れるために演技を始めたはずだったし、実際に最高に楽しい日々を過ごせた。でもいつのまにか劇と現実の境界が消失して、暴力や悪意が現実を浸食してゆく。彼らは不安になって、まるで自意識過剰な少年少女のように、安心を求めて暴走する。コマツアリマサはそのすべてを背負って落ちてゆく。長い長い時間をかけて落ちてゆく。
演技が必然的に孕む不安から、ヘソムラアイコだけが逃れている。彼女は城の侍女だ。彼女はコマツアリマサの世話をして、城にやってくる客を出迎える。彼女にはへそがない。へそは母との繋がりの証で、彼女は生殖のループからも離脱している。何にも執着しない彼女は、誰もが不安になるあの城でただ一人落ち着いている。たぶん彼女は『ハムレット・シンドローム』が結末を迎えたあとも、ずっとあの城にいるのではないだろうか。あの城はコマツアリマサの所有物だけれど、世界は演技に満ちていて、城は消えない。たばこをふかしながら新たな客を待っている彼女がいる限り、次のハムレットはきっと生まれる。

『海を失った男』シオドア・スタージョン(若島正編)

海を失った男 (河出文庫)

海を失った男 (河出文庫)

「音楽」
狂人でない人が狂人の思考を描こうとすれば、どことなく嘘くさくなってしまう。狂人はみな同様に狂っているわけではなく、独自の世界を持っている。彼らは社会の基準を踏み外しただけだ。「音楽」の描写を宙吊りにするような文体は、狂人の思考に踏み込みすぎず、同時に詩にもならずに小説の領域にとどまっているように思う。2ページ強という短さ。


ビアンカの手」
スタージョンはものすごく小説の文章がうまい(そして若島正の翻訳も素晴らしい)。日本語にしても英語にしても、手に主体を見出すようにはできていない。あくまで人が主体になるように文法が構成されている。だから、あたかも手に人格があるように書くと単調になりやすいのだけれど、スタージョンはその障壁を軽々と乗り越える。文章の技巧だけでもじゅうぶんに酔える。ランは真面目な人物だった。そんな人物がふとした拍子に規範から逸れてしまう。明後日の方向に決断してしまう。でもたぶん彼は最後まで真面目な人物だった。


「成熟」
ずっと子供のままのはずだった無邪気な天才を、治療して大人へと成熟させること。成熟とは何か。


「シジジイじゃない」
人と人の関係はまるで虚構と現実の関係みたいだ、と思う。現実にとっての虚構のように不自由だし、虚構にとっての現実のように観測が難しい。「シジジイじゃない」「三の法則」「そして私のおそれはつのる」の三作は、人と人の関係にそれぞれ別の角度から光をあてる。そしてそのどれもが、規範的な人間関係を解体してくれる。


「三の法則」
ぼくときみという二人組にこだわる人たちがいる。もう一方では仲間としての集団にこだわる人たちがいる。この二つの捉え方はまったく違うようで根を共有している。縦糸と横糸が強固に絡みあうように複雑に結びつきあっていて、そこから解放されるためには困難を伴う。スタージョンジェンダーSFの創始者でもあったらしいけけど、この「三の法則」からはその片鱗がうかがえる。二かける三は三かける二。男女の関係が残り続けているのが不思議な感覚。


「そして私のおそれはつのる」
読んでいて面白かった。文章も読みやすいし、ビルドゥングスロマンの構造をなぞっている。主人公のドンは初老の女性と出会い、彼女に導かれるまま成長していく。しかし、受動的なだけでは成熟できない。ドンはジョイスという女の子と出会い、もう一度問い直す。自分で考えた方法で生きようとする。途中で登場する詩がとてもいい(題名もここからとられている)。結末もさわやか。


「墓読み」
きれいな短編。死者は究極の他者なんだと誰かが言っていたけれど、墓石との向き合い方を考えることは他者との向き合い方を考えることにもなると思った。でもやっぱり大森望の翻訳はちょっと苦手。


「海を失った男」
書き出しから結びまで途切れることなく続く緊張感。スタージョンは初稿の四分の一まで削ってこの作品を完成させたらしいけれど、それは正しい選択だったと思う。分量じたいは短いから一時間ほどで読める。でもその間ずっと張り詰めているから、読み終わったときに身体中の力がぬけるような気分だった。もしこれ以上長かったら疲れてしまうという絶妙な長さだった。語れば語るほどこの作品の価値を下げてしまうような気がするので、このくらいで。とにかくすごかった。

2010年の終わりに

コートを着て映画館へ行った。瀬々敬久監督の「ヘヴンズストーリー」を見た。よい映画だと思う。たくさんの人生を一度にまとめて体験するような映画だった。その人生たちはどれも同じような表情をしていた。誰もが喪失している。喪失から回復しようともがいている。しかし、そのためには自分で自分を許す必要があって、それはとても難しいことだ。瀬々監督はインタビューの中で、ヘヴンという言葉について、「西洋的な一神教」ではなくて「東洋的というか、人間を含めて、動物、植物、大きく言ったら宇宙とかまで含めて森羅万象な生きとし生けるもの全てが絡まりあう曼荼羅のような世界観」なんだと言っている。一神教の世界には、ただ一人の神がいる。絶対的な他者である神と向きあうことで許しを得る。この映画ではそれとは逆で、許しを得るためには、神と向き合うのではなくて、不器用に生活しなければならない。街を歩き回り、人と交わりあい、さらに罪を重ねなければならない。復讐の連鎖は止められない。だから、結末で彼らは、子供たちに願いを託した。登場人物の一人は、「生まれてくる子供によくないから」と言って妊婦が罪を犯そうとするのを止める。そして彼は自分がいなくなった世界に願いを託して去っていく。


去年の冬のことを思い出している。冬休みに生活リズムを崩してしまい、ツタヤで借りすぎたDVDを毎日深夜に少しずつ見た。青山真治監督の「EUREKA」を見た。冬の深夜、室内なのにコートを着て、自分の部屋でマックブックに齧り付いて3時間半、ディスプレイを睨み続けた。映画内の時間はゆっくり過ぎてゆくから、大切な場面を見逃してしまうという不安もなかっただろうけど、なぜか目が離せなかった。そこに映る北九州の風景の何に引きこまれたのだろう。よくわからない。それなのになぜか、最後のシーンでジム・オルークユリイカが流れたとき、喉の奥から深い感情がこみあげてきた。そこにどんな理屈が働いているのか、さっぱりわからなかった。それ以来ずっと、狭くて小さい空間から呼びかけてくるようなジム・オルークの声を聞くたび、同じ感情を反復した。切なさと寂しさと懐かしさが入り交じった気持ちを繰り返し味わった。自分が何に感動しているのか理解できなくて気味が悪かった。そしてぼくは、文体(モノクロの映像であること、長回しが用いられていること)や構造(トラウマ→癒し)については語れても、その奥にある根源的な叙情に触れられないことに気がつく。そもそも語る言葉を持たないのだ。それについて語るためには、作品を語ることでその向こうに映る自分の像に手を伸ばさなければならない。ぼくはまるで回し車を走り続けるように、ただひたすら感情の核の周りをぐるぐる回り続けている。


去年の冬が今年の夏や秋よりも遥かに近いような感じがする。マフラーを巻いたり白い息を吐いたりしていると、それがきっかけになって一年前の出来事や感情を克明に思い出したりする。中原昌也が瀬々監督との対談で「本当は映画は体験なんだ」と述べているけれど、確かに長い映画は物語である以前に体験として記憶されやすい。ユリイカは物語として好きなわけではなく、映画体験として鮮烈だった。だから、感動をもう一度味わいたくて、予告編にユリイカと似たものを感じたヘヴンズストーリーを見に行く気になったのだし、たぶんこれからも同じ感動を求め続けるのだろう。コートを着てマフラーを巻いて縮こまって映画館に入って行くとき、ああぼくはこれからユリイカと同じ感動を味わうかもしれないのだと思ってそれだけで武者震いした。残念ながら、ヘヴンズストーリーはユリイカほど鮮烈な体験ではなかったけれど、一つの映画体験の記憶になって堆積してゆくのだろう。映画館からの帰り道で神社に寄って、お賽銭を入れてお参りすると、季節の循環がどんどん早くなっていくような予感に囚われた。毎年時間の進むスピードが速くなってゆき、やがて無限に高速化して、木の周りを回る虎がバターになってしまうように何か美味しい食べ物になってしまうのではないだろうか。たぶんバターが虎とは全然違うように、それは季節の円運動とは無関係の爽やかな食べ物だろう。そして齧ってみると、自分を削りとっているような罪悪感にかられるに違いない。去年の冬がすぐ近くに感じられるように、来年の冬はすぐそこまで迫ってきている。でも来年の冬に辿り着くためには、遠くに見える春や夏や秋を過ごさなければならない。