『ミステリアスセッティング』阿部和重

ミステリアスセッティング

ミステリアスセッティング

11/23読了。今年114冊目。
阿部和重はデビュー以来ずっと、思い込みの激しい男性を中心に据えて小説を書いてきた。『アメリカの夜』の中山唯生は、「秋分の日」生まれの自分は「春分の日」的なものと戦わなければならないと決心して滑稽な争いを巻き起こした。『シンセミア』は男性も女性も多数登場する群像劇だったが、その世界観は暴力性を基調とした男性的なものだった。その傾向はロリコン趣味に憑かれて人生を破綻させる『グランド・フィナーレ』の主人公まで、ほとんど例外なく継続していたように思う。
『ミステリアスセッティング』でその傾向が打ち破られる。主人公はシオリという少女で、彼女は今までの阿部和重作品の登場人物とは一線を画している。彼女は生来のものすごい音痴なのに、吟遊詩人を目指す。吟遊詩人というのが具体的にどんな生き方を指しているのか、よくわからない。とにかく吟遊詩人になりたい、と言う。妹には厳しすぎるくらいに諭され、友人には裏切られ、それでもシオリは挫けない。どこまでも純朴に健気に生きていこうとする。結末で彼女はその純朴さゆえに奇跡を起こす。そこで老人が子供たちに語る物語は終わる。という子供時代の思い出を、聞き手の一人だった人物が回想する、という構造になっている。
この小説はケータイサイトに連載された。だから、シオリはケータイ小説の主人公たちのパロディなのだ、という見方もできるだろう。でも、むしろぼくは、シオリは「聖なる愚か者」に近いのではないかと思う。ドストエフスキーが『白痴』のムイシュキン伯爵を「無条件に美しい人物」として描き出そうとした。それを受け継いだ鹿島田真希はそのモチーフを自分の小説の中に取り入れた。それらの小説を読んだときと同じような印象を、『ミステリアスセッティング』にも抱いた。「聖なる愚か者」は世の中を要領よく渡ってゆくことはできないけど、その高潔な正直さはやがて奇跡を起こすかもしれない。みすぼらしさはある瞬間、唐突に反転する。
この奇跡の物語は、世代を超えて語り継がれていく。その過程を何重にも伝聞を重ねることで表現しようとしたのは素直に面白いな、と思う。奇跡は瞬間的なものだから、何度語り直されて枝葉末節は変化しても本質的には変化しえない。そういえば『奇跡も語る者がいなければ』という小説があった。そこには奇跡とその奇跡が語られてゆくことの不思議な関係が表現されていた気がする。
きっと阿部和重は『ピストルズ』において、女性的なものにもっと深く潜りこんでゆくのだろう。春になって植物が活気づく頃に読めればいいなと思っている。

『冷たい校舎の時は止まる』辻村深月

冷たい校舎の時は止まる (上) (講談社ノベルズ)

冷たい校舎の時は止まる (上) (講談社ノベルズ)

『冷たい校舎の時は止まる』の世界は、それほど遠くにあるわけではない。これはセンター試験を控えた受験生たちの物語だ。それなのにどうしても隔たりを感じてしまうのはどうしてだろう、と問うてみる。そして、自分の側にあるのにこの物語の側にないものと、この物語の側にあるのに自分の側にないものを整理して、両者の決定的な差異は虚構と現実の差ではない、と信じてみる。
8人の高校生が、雪に閉ざされた校舎に閉じこめられる。男子が4人、女子が4人。他には誰もいない。ミステリだけれど、殺人事件は起こらない。ただひたすら自殺したのは誰か、と問い続ける。だから解決編は、名探偵が登場して真相を訥々と述べるのではなく、登場人物全員が忘れてしまっていた真相を思い出すことで遂行される。彼らには順番があって、ひとりづつ、モノローグのなかで真相を思い出す。誰かが自殺したという事実は、各々が受け止めなければならない。いつも仲良く一緒にいても、世界を抉る事実と向き合うときはひとりになる。
でも、この世界に共感することはできない。各々のモノローグが分離されていて、結局自分と向き合ったときに回想するできごとが高校の友人と共有していない思い出ばかりなのは、友情の希望と絶望が感じられてよいと思った。けれども、彼らの回想する思い出が、菅原のものを例外として、何となく単調な回路に収まってしまっている気がするし、登場する男の子が全員強くて優しく、女の子は男の子の庇護下に入ろうとする、というパターンのもとに描かれているのもホモソーシャルヘテロセクシャル的な世界観が感じられて気に入らない。だからぼくは、この世界が美しいとも、何らかの真実を書くのに相応しいとも思わない。
それでもこの小説を放っておけないのは、『冷たい校舎の時は止まる』の過剰さが現実味をもって現れる瞬間をぼくが探しているからだろうと思う。例えば『恋空』というケータイ小説のことを思い出す*1のだけれど、ケータイ小説の担い手の女子高生たちは、「リアル」という言葉を用いていた。彼女たちの言う「リアル」は、大人たちにとっても、その文化の外側にいるぼくたちのような高校生にとっても、過剰に戯画化されているように思えた。つまり、妊娠とかレイプとかそういうのは、彼女たちの誰もが体験する現実を描いていたとは思えないし、一部の人たちはそういった不幸を身近に体験したのかもしれないが、それを多数の人が「リアル」だと言うのはおかしいのではないか、という疑問だった。しかし一方で、あの世界観が彼女たちにとってある意味での真実を示していたのは間違いないと思う。「リアル」という言葉で表現されるのは、現実よりもはるかに過剰な体験に満ちた世界だった。たぶん彼女たちはある条件の下で、ケータイ小説のように現実を見るのだろうし、ケータイ小説のように物事を感じるのだろう。
『恋空』の世界は『冷たい校舎の時は止まる』よりも接点が少なく、遙か遠くに感じられるけれど、これらの小説は共通して、盲目に自分の信じる「リアル」を貫いているように思える。外側からは滑稽にしか映らなくても、彼らは現実の生々しさに打ちのめされるような体験をしている。はたしてぼくはそのような体験をしたか、と問うてみる。盲目を捨てることばかり考えて、結局自意識の内側で堂々巡りをしているだけじゃないのか。権威づけばかりを求めて、誰にも保証されなくても決断する強さを失ってはいないか。でも、こんなことはずっと前から問い続けているのだった。そのために、自分の今いる場所で、どこかに隠れていた誰かの「リアル」がたまたま顔を出す裂け目を探しているのだった。たとえばケータイ小説がブームになったときみたいに。でも、自分の足で歩け、というのは確かに、まったく正しいのだった。

*1:このあたりは濱野智史アーキテクチャの生態系』を参考にしました。http://wiredvision.jp/blog/hamano/200801/200801151110.html

『グランド・フィナーレ』阿部和重

グランド・フィナーレ

グランド・フィナーレ

11/6読了。今年106冊目。
シンセミア』と『ピストルズ』の間に書かれた作品集。

グランド・フィナーレ

芥川賞受賞作。二部構成になっていて、第一部は「わたし」が離婚して会うことのできなくなった娘をひと目見るために奮闘するが、若い友人に離婚に至った過程を話して強く拒絶され神町の実家に帰るまで。第二部では神町で閉塞した日々を過ごしていた「わたし」が、小学生の女の子二人の演劇の指導をするうちに擦り切れた人格を徐々に回復させていく。「わたし」が離婚することになった理由はロリコン趣味が大いに関係していて、この小説が紹介されるときにはそこがクローズアップされることが多いが、阿部和重が現代的な題材をサンプリングするのはほとんど習慣みたいなものだろう。全編にわたって真面目くさっているけどちょっとずれた比喩が多用され、読者の感覚は脱臼され続ける。ときどき笑える。
東京の第一部と神町の第二部がまったく違った感性で書かれていて、きれいな対照をなしている。そして「わたし」の心情の変化は、そのまま東京から神町への移行に対応している。「わたし」が回復していく過程が、罪の意識が克服されて新たな自己が正当化されるという素直な更生としては描かれず、娘とは関係の無い少女二人を極めて真っ当に救うという間接的な方法がとられるのは面白い。しゃちほこばった語り口調のせいで「わたし」が結局何を考えているのかよくわからないから、開かれた結末は本当に先がどうなるのかわからず、読者は困惑してしまう。
全体の構成はよくできているし、いろいろな読み方ができそうだ。だけれど、ぼくは阿部和重に過剰な期待をもっているので、満足することはできない。神町サーガの一部分だからよいものの、ひとつの小説としてはあまり面白いとは思えない。阿部和重にしか書けない小説だ、という満足感がない。逆に考えると、ひとつの小説としてではなく、神町サーガの一部としてなら評価できるかもしれない。『ピストルズ』に期待したい。

「馬小屋の乙女」

阿部和重のばかばかしいところを凝縮したような短編。楽しかった。こういうのがたまに読みたくなる。

「新宿ヨドバシカメラ

ABC戦争」の冒頭みたいな感じ。下ネタと現代思想。こういうのもたまに読みたくなる。

「20世紀」

予言をする老人が登場する。神町サーガの世界観を補強するような内容。でも単独で見た場合には特にどうということはない短編。

『黒猫・アッシャー家の崩壊』エドガー・アラン・ポー(巽孝之訳)

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

11/1読了。今年105冊目。
ポー生誕200周年を記念して編まれた傑作短篇集の一冊。こっちにはゴシックとかホラーとかそういう種類の短編が収録されている。「黒猫」「赤き死の仮面」「ライジーア」「落とし穴と振り子」「ウィリアム・ウィルソン」「アッシャー家の崩壊」の6編。ちなみにもう一冊は「ミステリ編」といって、ミステリの先駆となった短編たちが収められている。

「落とし穴と振り子」

このはてなダイアリーを遡っていくと、ぼくはこの短編を15歳のときにも読んだらしい*1。読書メモをつけているとこういうときに読み方の変化がわかって楽しい。
異端審問にかけられてじわじわと死に近づいていく恐怖が記されたホラー小説なのだけど、最近異端審問に関する本を数冊読んだ(感想は書いていないけれど)ので、そういう側面ばかり気になった。たぶん過去に読んだときにはそんなことはまったく意識にのぼらなかった。時代背景に注目して逆に小説の本質からは遠ざかってしまった気がするし、知識は小説を読むのに役立つ一方というわけにはいかないな、と思った。

ウィリアム・ウィルソン

いわゆるドッペルゲンガーもの。語り手は思うがままに生きているが、どうしても思い通りにならないことがあって、そういうときに決まって姿を見せる人物がいる。彼は語り手と顔も動作もそっくりだという。安藤礼二がどこかの文芸誌で「ゼロ年代はポーの時代だった」みたいなことを述べていたけれど、確かにゼロ年代的なテーマを先駆していると感じた。でも、どこがゼロ年代的なのか、具体的にゼロ年代のどの小説に似ているのか、考えてみたけれどさっぱりわからない。それはポーの影響が時代の無意識に浸透してしまったとも言えるし、逆にポーの小説がどことなく現代っぽいだけかもしれない。安藤礼二のその論考は冒頭だけしか読んでないので、いつか機会があれば読む。

「アッシャー家の崩壊」

ポーはあまりに多彩な側面をもつ作家だから最上の短編というものを選ぶことはできないけれど、「アッシャー家の崩壊」が到達点の一つであることはきっと間違いない。格調高い文章に冒頭から圧倒され、詩が埋めこまれ多数の書物の題名が引用されるという重層的な構成、外界から遮断され憂鬱が支配する神話的な空気感、時代を超えて鮮烈なイメージをもたらす結末。19世紀にこんな小説があったことに驚く。新しい要素が次から次へと投入され、決して難解ではないのに、どれだけ読んでも読みきることのできないような得体の知れなさを感じさせる。フォークナーはこれを引き継ごうとしたのだと思う。フォークナーが没落する南部の血筋を書き記すときに現れる圧倒的な神話の力が、ここにも垣間見える。巽孝之の簡潔で読みやすい訳文も好きだけれど、「アッシャー家の崩壊」は時代がかった読みにくい翻訳で読んだほうが雰囲気に合っているかもしれないので、次は別の翻訳で読んでみたい。

『夏と冬の奏鳴曲』麻耶雄嵩

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社ノベルス)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社ノベルス)

10/31読了。今年104冊目。
この物語には、すべてを破局へといざなう巨大な流れがあって、少なくとも巨大な流れを演出しようとする意志があって、この小説の全貌を語り明かすためにはその流れについて語るべきかもしれない。たとえば、解決編で解き明かされずに残された数々の謎に焦点をあて、テクストを深く読みこむことによって真相に接近するという読み方があると思う。あるいは、物語の隅々に表れるキュビズムの思想との共鳴を整理し、キュビズムを学びながら物語の本質に迫るという方法もあるだろう。けれども、ぼくはそういった欲求を喚起されなかった。むしろ、物語の本質からは遠いかもしれないけど、登場人物たちの造型や行動に関心を惹かれた。
物語の中心にいるのは烏有という名の21歳の青年で、医学部をドロップアウトして出版社で準社員として働く彼は、日本海の孤島に取材旅行に行く。その島は和音島といって、20年前に真宮和音という18歳の無名の女優を信奉する若者6人が1年間の共同生活を送った場所で、別れてから20年が経つのを機会にそのかつての若者たちが再び集まることになっていた。今は別々の道を歩む中年となった彼らを取材するのが烏有の目的だった。そして島で殺人事件が起こるのだけれど、それは推理小説の型紙をなぞったような典型的な殺人事件で、あまり特徴的なものではない。『夏と冬の奏鳴曲』を推理小説のコードから遊離させているのは、結末に訪れる絶望的なカタストロフィや、物語に通底する探偵小説としての気高さみたいなものだ。殺人事件は、それ自体は単調な悲劇でしかないように思える。
烏有という青年は、その名が示すとおり、中身のない空っぽの人物だ。11歳のとき、東大医学部の学生が彼の身代わりになって車に轢かれて命を落とした。それ以来ずっと烏有はその学生に憑かれている。烏有はその学生の人生をシミュレーションしようとする。ひたすら受験勉強に励み、東大医学部に入学しようとする。烏有のアイデンティティはその学生の歩んだ道をなぞることによって支えられていた。でも彼は受験に失敗し、浪人して挑んだ翌年も失敗し、何とか滑り込んだ三流私大の医学部からもドロップアウトした。烏有は自分がその学生とは異なる人間だということに気づく。存在意義は失われる。
烏有は桐璃と出会う。彼女は17歳の高校生で、ぼんやり日々を消化するだけの烏有を暗い世界から引きずり出す。空っぽに戻った烏有が彼女を守ることに存在意義を求めたのは当然の帰結に思える。誰もが烏有のように空っぽではないけれど、自己完結した人格なんてほとんどなく、他者に依存したり他者を所有したりすることでしか存在意義を保てない。烏有は現実を生きる人たちの歪んだ像として描き出されているような気がする。
東大医学部に通う好青年という像を病的になぞることよりも、女の子を守ることの方が、はるかにかっこいい生きがいだ。烏有の成熟の物語は、ここで完結している。ここからは、終盤のカタストロフィと烏有の決断について語らなければならない。ネタバレせずに語ることが難しくなってきたので、曖昧で不明瞭な表現が増えるかもしれないけれど、できるだけ語ってみる。
たとえば佐藤友哉フリッカー式』を思い出す。あれは妹を奪われた青年が、犯人の娘たちに復讐する小説だった。この主人公の決断は明らかにおかしい。犯人に復讐するならともかく、その娘は何の関係もない。倫理に悖るのはもちろん、まったく合理的ではない。主人公を突き動かしているのは本当に復讐心なのか、それとも歪んだ欲望なのか。このように普通に健康的な一般市民として生活していた人が突然意味のわからない決断をするというモチーフは決して珍しくない(たとえば、これと同型の短編を集めた作品集としてスタージョン『輝く断片』が挙げられる)。そこには決断に伴う魔力のようなものが働いている。
いくつかの類似点を考慮すると、たぶん『夏と冬の奏鳴曲』は『フリッカー式』の元ネタのひとつなのだと思う。『夏と冬の奏鳴曲』で提示される選択肢は、決断する前からあまりに救いがない。風景が崩壊していくなか、烏有は空虚な自己で思考する。ひとりの人物の決断に宿るカタストロフィは世界から切り離されているが、だからこそ読者はこの結末に嘆くことしかできない。物語はどこまでも烏有に冷淡で、最後の最後まで破壊し尽くす。ぼくは読みながら、ただこの結末を受け入れるしかなかった。
結末は壮絶だけれど、『夏と冬の奏鳴曲』には難点も多い。最初の400ページはあまり起伏のない展開で、推理小説の描写が好きでないぼくには少しつらかった。評価の高い作品だと知っていたから我慢して最後まで読んだものの、もしそうでなかったら放り出していたかもしれない。烏有と桐璃以外の人物はきわめて凡庸で、いかにも推理小説の登場人物らしい振る舞いをするのも残念だった。でも、『夏と冬の奏鳴曲』が新本格の枠組みのなかでしか書けない作品なのも確かだし、やがて新本格が忘れ去られても残るだけの強度をもった作品だと思う。

『不死のワンダーランドー戦争の世紀を超えて』西谷修

10/16読了。今年99冊目。
ハイデガーは『存在と時間』のなかで「存在論的差異」について述べた。それは、存在者(存在しているもの)ではなく、存在それ自体について考えようという提案だった。ハイデガーが言うには、近代人は日常にかまけて存在自体を問うことを忘れているが、対象をもたない意識である「不安」を経由することで本来性を獲得し、実存に目覚めることができる。ハイデガーの思想は20世紀の哲学者たちに深い影響を与えたけれど、『不死のワンダーランド』は特にレヴィナスブランショバタイユハイデガー以後として読み解き、現代が「不死」の時代だという結論に至る。
第一章。レヴィナスについて。レヴィナスハイデガーと同じ対象を、まったく別の方向から語った哲学者だ。ハイデガーが希望とともに語った存在への目覚めを、レヴィナスは恐ろしいものとして語る。なぜなら、存在に目覚めることは、存在の非人称性に気づくことだからだ。ここには、アウシュヴィッツの情景が重ね合わされる。レヴィナスは、強制収容所の記憶から思索をはじめた。そこでは、「私」は融解し、はだかの実存がさらけ出される。それはまさに、レヴィナスの語る人称性を失った存在そのものだ。「私」として死ぬことができないという「死の不可能性」に触れて、この章は終わる。
第二章。ブランショバタイユについて。フレイザーの「森の王」の神話が語られる。前任の王を殺すことで自分が王になり、それと同時に自分も次の王に殺される恐怖に脅かされることになるという。これは、前任の王の死と自分の死という「二重の死」に対応している。バタイユはそこに「至高性」を見る。ブランショは「死の不可能性」を語ったが、これも「死の空間」に投げ出され、そこで消えゆく運命を受け入れるという「二重の死」だった。人は「私」として死ぬことはできず、死は公共化している。
第三章。ハイデガーのナチ関与について。ハイデガーがある時期にナチ党員だったことは有名な事実だが、それについて80年代に論争が起こった。ファリアスがその著書『ハイデガーとナチズム』において、ハイデガーの哲学がナチスの思想と深い関わりを持っていると述べ、それを支持する側と擁護する側にわかれて論議が巻き起こった。たとえばデリダも、ハイデガーを擁護する『精神について』という本を書いている。ハイデガーが主体と対象の関わりを排除して哲学をとらえたことを考慮すれば、彼がナチに関与していた事実は彼の哲学に影響しない、と筆者は述べている。
第四章。公共性について。「ハイデガー問題」はメディアで大きく取り上げられたが、その現象自体がハイデガーの批判した数と凡庸の支配する公共性の時代を象徴している。ナチズムは公共性に溺れる人々を新しい神話で励起しようとした。ハイデガーは公共性を脱することで獲得する「本来性」のよりどころを、「民族」に求めたが、そういう意味ではハイデガーとナチズムは一致している。一方で、レヴィナスは固有性の喪失を批判しようとはしなかった。究極的には衆愚政治であるデモクラシーを退行しないための条件として認めるところでこの章は終わる。
第五章。不気味なものについて。「不安」を哲学的な言葉として示したのはキルケゴールだが、20世紀においては不安が物質的に露呈している。ハイデガーはその不安を存在に目覚める契機だと語った。しかし「計算的理性」がはびこる世界では、人々は無自覚に無根化していく。その現象が「不気味なもの」と呼ばれる。これは、ヘーゲルが語る、自然を征服して自己に同化させる力(=否定性)が支配するという世界と一致している。また、フロイトも「不気味なもの」という言葉を用いている。フロイトの「不気味なもの」は、ドッペルゲンガーのような「内界で抹殺されたものが外界から回帰する」ものを指す。
第六章。不死について。この章では、ここまでの「不死」に関する議論を語り直しながら、現代的な問題に言及している。「脳死」は人格の消滅した身体を臓器移植に役立てようという霊肉二元論的な発想だが、筆者は、固有性のない身体と二重化する死を認めたうえで、「私」の人格的同一性を身体の複合性に求めようとする。その姿勢は、収容所でエゴをむきだしにして生き抜いた人々を、一人の「ひと」が生きることはすべての「ひと」が生きることに等しいのだと肯定したブランショの思考と似通っている。
この本の存在は2ちゃんねるブランショスレで知った。ブランショの入門書として紹介されていたと思う。1990年に青土社版が刊行されて、1996年に青土社版から数章が割愛されたこの講談社文庫版が刊行されたらしい。読み始めたのは8月だったから、2ヶ月くらいかけてゆっくり読んだことになる。1章と2章は自分の興味のある領域だったので、レヴィナスバタイユブランショの思想の入り口としてじっくり読んだ。3章はあまり関心のない話だった。4章以降も面白かったけれど、同じ話が反復されているような気がして読むのが滞ってしまった。
哲学には「生の哲学」と呼ばれるものがあって、その反対側には「死の哲学」がある。この本が扱っているのは、そのうちの「死の哲学」にあたるもの。20世紀前半の二つの世界大戦を出発点として思考した哲学者たちを取り上げ、ハイデガーを中心にしてまとめられている。扱われている哲学者は難解なテクストを書く人ばかりだから警戒していたけれど、この本は簡潔な表現が心がけられているように思う。

 しかし「日常性」やその広がりである「公共性」を「頽落」とみなす必要はないし、「頽落」を負のバネとしてここにない「本来性」をあるべきものとして捏造する必要もない。「喪失」はそれ自体の積極性をもっている。「固有性」がありえないということ、「本来性」が不可能だということが、近代の「解放」の帰結だとすれば、その固有性の不在、「本来性」なるものの不可能は、逆に言えば「なにか神のようなもの」の「大空位」の開けそのものでもある。この〈開け〉が積極的なものでないはずがない。第2章で示したように、ブランショは(そしてバタイユも)この〈開け〉に「ウイ」を言ってみせたのだ。(195頁)


2011年1月19日:引用に誤りがあったので訂正しました。

『純潔ブルースプリング』十文字青

純潔ブルースプリング

純潔ブルースプリング

10/13読了。今年98冊目。
少しだけ『絶望同盟』に似ている。この二つの小説を読むと十文字青の風景を垣間見ることができる気がする。十文字青を読むのは3冊目なのではっきりしたことは言えないけど、十文字青が描き出すコミュニティーでは、表裏一体の絶望と希望が入り交じりながら人と人が関わり合う。『絶望同盟』ではそれ自体が主題になっていた。『純潔ブルースプリング』という小説のなかでは、その風景があるときは文体に、あるときは世界設定に織り込まれている。
『純潔ブルースプリング』はあまり複雑な小説ではないし、暗い小説でもない。なんといっても男の子が女の子を救いに行く小説なのだから、底抜けに明るい小説だと言っても怒られないだろう。彼らはいつもハイテンションで、時間は凝縮され、周囲を置いていく勢いで行動する。彼らの真剣さは、しばしば読者に滑稽に映り、笑いを引き起こす。そしてモノローグが遅れてやってくる。十文字青の登場人物は、内面と外面が乖離しているような、あるいは内面の存在自体を疑っているような、そういう人たちではない。彼らはそんな絶望を知り尽くしていて、だからといってそこから目を逸らしたりしない。彼らはそんな絶望が希望に姿を変える瞬間を探している。独り言をつぶやくようにおしゃべりすることはできないけれど、友達と一緒にいることはきっと楽しい。
『絶望同盟』の結末で一年後に控える受験のことが執拗に話題にあがるけれど、『純潔ブルースプリング』では月が降ってきて人類が死滅するという文字通り「世界の終わり」が青春の終わりを思い出させる。ニュースでは毎日月が降ってくるまでの予想年数を放送していて、登場人物たちもそれを見る。やがて月が降ってくることは当たり前のことで、いまさら言い立てることではない。その設定が物語に影響するわけでもない。青春がやがて終わることへの恐怖はいつだって無意識に潜んでいて、それは紛れもなく絶望だ。でも彼らの無意識にのしかかるその絶望は、もはや生活の一部になっている。今の生活がどこに向かおうとも、その絶望のなかで肯定的に処理できる。どれだけ物語が展開しても彼らがずっといい友達でいられるのはやがて世界が終わるからだと言っても、怒られないと思う。