2012年と夢の続き

読みかけの本を本棚に片づけるのが面倒になって、部屋の床に放置するようになった。図書館で借りてきた本も数学の教科書も、読むのをやめたその場所に配置し、やがて足の踏み場もなくなってしまう。積み上げた中に埋もれてしまった本のほとんどは、読みかけのまま記憶の隅に追いやられてしまい、後に思い立って捜し出すのに苦労する。慎重に歩いていても爪先で本を蹴飛ばしてしまい、蹴飛ばした本を拾い上げ、適当なページを開いて読み上げる。大概の言葉は文脈から切り離されてただの言葉になるけれど、ときどきそういった場面で本領を発揮する言葉があって、たとえば短い詩がそれにあたる。そもそも数ページで終わる作品に文脈はあまり絡まっていない。詩の言葉はたった一行でも感情に作用するから楽しくなって、かけ離れた詩を横に並べて、感情の上下動を面白がっていた。一瞬に生まれた感情は一瞬で消えてしまうけれど、そのリスクのなさが安心だった。感情に作用する言葉を風船に詰めこんで生活空間のあちこちに結びつけておけば、体に触れたときぱちんとはじけ、脈絡のない感情となって人を襲い、それからすぐに忘れられる。感情は生活と無関係に起こり、日々はちぐはぐなものになる。そんなふうに言葉をつかえたら、と考えて春が終わる。

生まれてすぐに寝て、二十年経ってやっと目が覚める。二十歳になるというのはそういうことだと十代のあいだは思っていて、だから周囲の人が二十歳になる前の自分に対して怒っていても、それはずっと眠って夢を見ていたことに対して怒っているのであって、その夢の内容に対してではないのだと信じていた。十代の終わりに何をしようかと悩み、結局雨の房総半島の真ん中で散歩してみたけれど、それも去年の夏にやったことの焼き直しにすぎない。がらんとした人のいない風景に自分の望む風景を重ね合わせようと、何度も何度も上書きしていく作業だった。色を塗りつける隙間から現実の断片が溢れてきて、やがて飽きてしまって電車に乗る。車両には他に人が乗っていなくて、向かいの窓ガラスには自分の姿がぼんやりと映っている。ノスタルジーを喚起する夕方の田舎の電車で、記憶を総動員して数年前の自分を再構成しようと試みるけれど、今朝見た夢を思い出そうとするように手応えがない。記憶をすり抜ける目の前の自分は過去のどの自分でもあり得るし、他人のように遠くに感じる。自分が鏡になって世界が過去方向に反転しているとすれば、視界には過去の自分が縦一列にずらっと並んでいて、手をかざせば一瞬前の自分と掌が合わさる。記憶から消えてしまっても、この列をたどった先に十代の自分もいるのだ、と考えて夏が終わる。

バートルビーは労働を拒絶し、生活を拒絶し、そして食べることを拒絶して死んでいくけれど、拒絶に至る前の彼はそれとは逆に、語り手である上司の命じるがまま黙々と筆写する人だった。語り手はバートルビーを最後まで見捨てず、不可解な言動をやめない彼と対話しようとする。非人間的なまでにすべての可能性を保留しようとするバートルビーは、実はときおり平凡な青年らしい顔を見せる。語り手が諦めきれなかったのは、そういった瞬間を知ってしまったからだろう。バートルビーの真似をして勤勉な労働者を演じてみたものの、重要なのは演技がほころぶ局面なのだと気づいてしまう。困ったのは辞めようと思ってもそう簡単には辞めさせてくれないことだった。ずるずると引きずって季節がまたたく間に過ぎ去り、大晦日にやっと「しないほうがいいのですが」と口に出す。心の中でバートルビーに謝りながら。同じ言葉でも意味合いはまったくちがっている。秋がほんとうに終わった自信がない。

目が覚めて見知らぬ人たちに囲まれていたらたぶん、もう一度眠ってしまうのが手っ取り早い。まだ夢を見ているのかもしれないと疑いだしたら切りがないし、そんな恐ろしい状況には向き合いたくない。Qのシンジくんは夢の階層を入ったり出たりするみたいに世界のモードを切り替えながら、貧しい風景を彷徨い歩く。でもどこへ行っても悪夢ばかりで、一向に目が覚める気配はない。EoEのときは夢があり、夢の外側の現実があり、どうやって夢をあきらめるか悩んでいたのだった。Qの世界はもっと曖昧で、殺風景で、人が少ない。人間関係に傷つくための街や学校がなく、他者に怯えるための不安もない。この悪夢を乗り切るためにはもっと別な手段が必要なのだと、映画のあちこちに散らばった希望を拾いながら、新しい言葉を模索する。でもそれも悪夢の一部に取りこまれていく。かつて夢の終わり、現実の続きといったとき、夢と現実のあいだにある区切れ目を神経質になぞって怖がっていたのだった。でもほんとうは夢と現実は地続きなのだと夢を見ている最中は確かに知っているのだ。だからせめて、シンジくんが初号機で眠っているあいだに見た夢が幸福なものだったら嬉しいと思う。