『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ(柴田元幸訳)

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫

リチャード・パワーズのデビュー作。パワーズが20代のときに書いた作品と聞いて驚くと同時に、自分の持っているものすべてを注ぎ込むようなエネルギーは若さゆえかもしれないとも思う。
この小説は三つのパートからなる。ひとつは表紙にもなっているアウグスト・ザンダーの写真についての「私」の探究の記録。ひとつは1914年、その写真に写る三人の農夫が第一次世界大戦に巻き込まれてゆくさまを描く、空想か史実かはっきりしない記述。ひとつは現代の青年ピーター・メイズがオフィスの窓から見た赤い髪の女性を探してゆく過程で起こった出来事の描写。これら三つのパートが交互に語られてゆき、しだいに各パートの関連が見え始め、やがて収束してゆく。
この小説には至る所に引用や皮肉が登場する。隅から隅まで情報に彩られていて、これはいったい何の引用なのだろうと想像しているとまたすぐに新しい引用が出てくる。たぶん気づかずに通り過ごしている引用も多いだろう。情報の種類も多岐にわたっていて、物理や歴史や大衆文化など、高尚な話題からただの蘊蓄まで惜しみなく投入されている。その幅広さは各章ごとのエピグラフを読んでいくだけでも何となく伝わってくる。ヘンリー・フォードの言葉に始まって、ルネ・デュボスの引用のかっこよさには唸らされた。知らない著者や本の題名を見つけて検索するのが楽しかった。
ベンヤミン「技術的複製時代の芸術作品」を引用しながら写真論を提示するところが、個人的にはクライマックスのひとつだと思う。観察者と対象の区切りの不明確さ、あるいは観測の不可能性。ハイゼンベルグの不確定性定理によって明らかになった20世紀を貫く発見。こういうテーマは決して珍しいものではないし、他にもこのテーマを扱った小説は多いだろう。パワーズがすごいのは、これを写真論につなげて、カメラのレンズの向こうに、シャッターを切るザンダーの背景に、やがてその写真を見るだろう未来の群衆を幻視させたことだ。このシーンでは、この小説の三つのパートだけでなく、アメリカの歴史が、20世紀の総体がひとかたまりになって読者を襲い、そのまま通り抜けて遙か後方へと過ぎ去ってゆく。一気に歴史を追体験するような感動があった。
円城塔パワーズを好きな作家として挙げているのを何回か見かけたけれど、確かに共通する特徴がいくつかある。文体の反射的な運動神経のようなもの、物理学っぽい話題、アメリカの風景への愛着。円城塔が長い小説を書いているのは滅多に見ないけど、もし円城塔が長編を書いたらこんなふうかもしれないな、と思った。長編というのは、たとえばテーマの大きさやプロットの運び方といった点で短編とは別のパッケージング、ということだ。円城塔が長い小説を書く予感がしないので、たぶんこれはただの妄想で終わるだろうけれど。