『地下鉄のザジ』レーモン・クノー(久保昭博訳)

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

ザジが行ったり来たりしているその都市がパリでなかったとして、何が変わるだろう。田舎の少女ザジは母に連れられ、電車に乗ってパリにやってくる、地下鉄に乗るために。「地下鉄、この優れてパリらしい交通手段」。都市の地下を縦横にすれ違いながら走る地下鉄はこの日ストのため動いていない。ザジたちは塔の展望台からパリを一望しているがエッフェル塔だとはどこにも書かれていないし、展望台から見下ろす建物はパンテオンなのか廃兵院なのかはっきりしない。ザジは観光に明け暮れているはずだし、ザジの伯父ガブリエルに心酔する謎の観光客たちも登場するし、このパリは観光都市としてのパリのはずなのにぜんぜんパリじゃない。
そもそも風景や都市ではなく人物と会話だった。オウムのラヴェルデュールがオウムらしい脈絡のなさで「おしゃべり、おしゃべり、おまえにできるのはそれだけ」と言う、まさにそのように。だいたいみんなおしゃべりばかりしている。ザジは絵に描いたようにものわかりの悪いませた子供だし、ガブリエルは急に古めかしい言葉遣いで超然とした独白を始めるし、気まぐれな演劇みたいな側面もある。会話文の中に(身振り)とか(沈黙)とか挿入されていてそういう点ではまさに演劇。でも(身振り)と書かれていてもどういう身振りかわからないから、会話文の内容から一瞬だけ意識を逸らされるしるしとして読めばいいのだろうか。過剰なキャラクターたち、まるで幻のパリで役者たちが演技をしているみたいだ。
さまざまな名前で登場するあの人、ほんとうの名前はわからないけれども、彼は警察官のかっこうをして警察官のふりをする、別のときは警官のふりをした痴漢のふりをした私服警察のふりをする。演技をする層をまちがえたのかもしれない、演技をしようとして演技をする人を演じている。複雑なことをしているようでただ勘違いしているだけのような安心感がある。彼に惚れこむムアック未亡人は頭のねじがはずれている、瞬時に惚れこんで盲目的に彼を追いかけるけれど移り気も激しい。彼女もまたおしゃべりのテンポをつかむのが下手であさっての方向に言葉を投げている。彼女に降りかかる残酷な運命がどことなく示唆的でも、きっと劇の外側の何かの犠牲になったのだと思う。
思わずページを戻して読みなおしてしまうような行き当たりばったりの展開は、たぶん地下鉄の揺れだとか、アナウンスとか、乗客の話し声とか、そういう些末な刺激が拡大されて現れている。すべての出来事は地下鉄で夢に見られているし、だから彼らは地下鉄に乗れない。地下鉄に揺られているあいだは地上の彩りは楽しめない。ザジの見る夢が軽やかなリズムを保ったまま書物が閉じられ、役者勢揃いの閉幕は忘れ去られる。