2010年の終わりに

コートを着て映画館へ行った。瀬々敬久監督の「ヘヴンズストーリー」を見た。よい映画だと思う。たくさんの人生を一度にまとめて体験するような映画だった。その人生たちはどれも同じような表情をしていた。誰もが喪失している。喪失から回復しようともがいている。しかし、そのためには自分で自分を許す必要があって、それはとても難しいことだ。瀬々監督はインタビューの中で、ヘヴンという言葉について、「西洋的な一神教」ではなくて「東洋的というか、人間を含めて、動物、植物、大きく言ったら宇宙とかまで含めて森羅万象な生きとし生けるもの全てが絡まりあう曼荼羅のような世界観」なんだと言っている。一神教の世界には、ただ一人の神がいる。絶対的な他者である神と向きあうことで許しを得る。この映画ではそれとは逆で、許しを得るためには、神と向き合うのではなくて、不器用に生活しなければならない。街を歩き回り、人と交わりあい、さらに罪を重ねなければならない。復讐の連鎖は止められない。だから、結末で彼らは、子供たちに願いを託した。登場人物の一人は、「生まれてくる子供によくないから」と言って妊婦が罪を犯そうとするのを止める。そして彼は自分がいなくなった世界に願いを託して去っていく。


去年の冬のことを思い出している。冬休みに生活リズムを崩してしまい、ツタヤで借りすぎたDVDを毎日深夜に少しずつ見た。青山真治監督の「EUREKA」を見た。冬の深夜、室内なのにコートを着て、自分の部屋でマックブックに齧り付いて3時間半、ディスプレイを睨み続けた。映画内の時間はゆっくり過ぎてゆくから、大切な場面を見逃してしまうという不安もなかっただろうけど、なぜか目が離せなかった。そこに映る北九州の風景の何に引きこまれたのだろう。よくわからない。それなのになぜか、最後のシーンでジム・オルークユリイカが流れたとき、喉の奥から深い感情がこみあげてきた。そこにどんな理屈が働いているのか、さっぱりわからなかった。それ以来ずっと、狭くて小さい空間から呼びかけてくるようなジム・オルークの声を聞くたび、同じ感情を反復した。切なさと寂しさと懐かしさが入り交じった気持ちを繰り返し味わった。自分が何に感動しているのか理解できなくて気味が悪かった。そしてぼくは、文体(モノクロの映像であること、長回しが用いられていること)や構造(トラウマ→癒し)については語れても、その奥にある根源的な叙情に触れられないことに気がつく。そもそも語る言葉を持たないのだ。それについて語るためには、作品を語ることでその向こうに映る自分の像に手を伸ばさなければならない。ぼくはまるで回し車を走り続けるように、ただひたすら感情の核の周りをぐるぐる回り続けている。


去年の冬が今年の夏や秋よりも遥かに近いような感じがする。マフラーを巻いたり白い息を吐いたりしていると、それがきっかけになって一年前の出来事や感情を克明に思い出したりする。中原昌也が瀬々監督との対談で「本当は映画は体験なんだ」と述べているけれど、確かに長い映画は物語である以前に体験として記憶されやすい。ユリイカは物語として好きなわけではなく、映画体験として鮮烈だった。だから、感動をもう一度味わいたくて、予告編にユリイカと似たものを感じたヘヴンズストーリーを見に行く気になったのだし、たぶんこれからも同じ感動を求め続けるのだろう。コートを着てマフラーを巻いて縮こまって映画館に入って行くとき、ああぼくはこれからユリイカと同じ感動を味わうかもしれないのだと思ってそれだけで武者震いした。残念ながら、ヘヴンズストーリーはユリイカほど鮮烈な体験ではなかったけれど、一つの映画体験の記憶になって堆積してゆくのだろう。映画館からの帰り道で神社に寄って、お賽銭を入れてお参りすると、季節の循環がどんどん早くなっていくような予感に囚われた。毎年時間の進むスピードが速くなってゆき、やがて無限に高速化して、木の周りを回る虎がバターになってしまうように何か美味しい食べ物になってしまうのではないだろうか。たぶんバターが虎とは全然違うように、それは季節の円運動とは無関係の爽やかな食べ物だろう。そして齧ってみると、自分を削りとっているような罪悪感にかられるに違いない。去年の冬がすぐ近くに感じられるように、来年の冬はすぐそこまで迫ってきている。でも来年の冬に辿り着くためには、遠くに見える春や夏や秋を過ごさなければならない。