『木曜日だった男』G・K・チェスタトン(南條竹則訳)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

「誰が狂っていようと、誰が正気だろうと、どうでもいいことじゃないか? もうじき、みんな死ぬんだ」(252頁)

 グレゴリーはステッキで街灯柱を叩き、それから木を叩いて言った。「こいつとこいつの話だ、秩序と無秩序に関する話だ。あの痩せっぽちな鉄の街灯、醜くて不毛なあれが、君の大切な秩序だ。そして、こちらには無秩序がある。豊かで、生きていて、自己を再生産する――これが無秩序だ。緑と金色に輝いているこいつが」
「しかしね」サイムは忍耐強くこたえた。「今、君は街灯の光で木を見ているにすぎない。果たして、いつか木の光で街灯を見ることができるかね?」(27-28頁)

創世記によれば、神は第四日目に太陽と月をつくったという。おそらくその神は、太陽は昼に輝き、月は夜を照らすから、きっとこの恒星と衛星が対をなすと考えていたのだろう。夜空に発見する月の光が、地球の反対側で燃焼する太陽の光が反射したものだと、自然科学に慣れ親しんだ人々は知っている。
詩人ガブリエル・サイムは、無政府主義者たちが世界の秩序を乱すことを知っていた。彼は詩人であると同時に、警官でもある。ある夕方、彼は暗室に姿を隠した謎の男に無政府主義者を取り締まる警官に任命され、そのしるしに青いカードを渡されたのだった。やがて彼は無政府主義集団の最高評議会に、新しい評議員として潜入することとなるのだが、七人の評議員にそれぞれ曜日の名が与えられるそこで彼に与えられたのが木曜日の称号だった。
このあと彼は悪夢めいた体験をすることになる。まずはじめに誰が敵で誰が味方かわからなくなり、次に誰が正気で誰が狂気かわからなくなる。サイムはずっと自分の側に正義があると信じていたが、気がつけば少数派になって追いつめられている。そうしてロンドンからフランスに渡って繰り広げられた彼の冒険も、思想もなければ闘争もない、蛇が自分のしっぽを追いかけていつまでも回り続けるようなものだったと知らされる。
そもそも彼が最高評議会に招待された因果の根には、無政府主義を標榜する赤毛の青年グレゴリーとの出会いがあった。サイムとグレゴリーは秩序の思想と無秩序の思想をぶつけ合い、グレゴリーは自分の無政府主義が机上の空論でないことを示すために、所属する無政府主義集団の支部の存在をサイムに見せつけるのだった。しかし、そこで行われた最高評議会に派遣する代表を決める会議で、サイムは舌鋒鋭くグレゴリーをだしぬき、自分が支部の代表となってみせた。支持者たちが瞬く間にグレゴリーを裏切ってサイムに鞍替えしていく光景は、このあとサイムの身に降りかかる、敵も味方もわからなくなる恐怖によく似ている。
もしほんとうにこれらの不安が一つの悪夢でしかないとして、チェスタトンが冒頭の詩で述べるように、「安心して読むことができる」だろうか。若さゆえの苦悩として、忘れることができるだろうか。決してそんなことはないだろうし、この詩もまた回りくどいアイロニーなのかもしれない。サイムはグレゴリーの妹に向かってこのように言う。「ところで、あなたのお兄さんのような方は、時々自分の言いたいことを本当に見つけるんです。それは真実の半分か、四分の一か、十分の一であるかもしれません。でも、その時、彼は言わんとする以上のことを言うんです――言いたいというひたすらな思いから」(24頁)。すなわち、ときとして言葉は話す人の意図を超えていく。グレゴリーとサイムという二人の若い詩人の議論が、その後に来る悪夢をすべて含んでしまうこの場所で、「安心して書く」ことも「安心して読む」ことも、悪夢が真実になる不安につきまとわれる。