『ハムレット・シンドローム』樺山三英

ハムレット・シンドローム (ガガガ文庫)

ハムレット・シンドローム (ガガガ文庫)

シェイクスピアの『ハムレット』において、デンマーク王子ハムレットは父が叔父に殺されたことを幽霊に教えられて、復讐を果たそうと決意する。叔父は父を継いで王位に居座り、母を后としていた。まず彼は気が狂ったふりをして叔父の真意を知ろうとする。だが、肝心の復讐は細々とした理由をつけてずるずると先延ばしにされ、最後は登場人物のほとんどが死ぬという悲劇的な結末を迎える。
ハムレット』は戯曲だから演じることを宿命づけられている。ハムレットを演じるのは、「気が狂ったふりをする」ふりをすることだ。演技することの自由に取り憑かれた子供たちは演技に演技を重ね、やがてどこに真実があるのか忘れてしまう。だからこの小説の真実は永久に知ることができない。何が起こり、誰が死に、誰が残ったのか。5人の語り手の誰一人として真実を共有していない。
語り手たちはコマツアリマサの城で語る。演技にのめりこむうちに着地点を見失ったコマツアリマサは、演技の迷宮を具現化してしまう。それが海岸にそびえ立つ巨大な城だ。コマツアリマサは自分がハムレットだと信じこんでいる。信じこんでいる演技をしているのかもしれない。語り手たちは城に迷いこむ。
ハムレット・シンドローム』における悲劇は、登場人物たちの運命が『ハムレット』の悲劇を部分的になぞっていくことだけではなく、演技の重なりを迷宮と捉えてしまったことにある。自由を手に入れるために演技を始めたはずだったし、実際に最高に楽しい日々を過ごせた。でもいつのまにか劇と現実の境界が消失して、暴力や悪意が現実を浸食してゆく。彼らは不安になって、まるで自意識過剰な少年少女のように、安心を求めて暴走する。コマツアリマサはそのすべてを背負って落ちてゆく。長い長い時間をかけて落ちてゆく。
演技が必然的に孕む不安から、ヘソムラアイコだけが逃れている。彼女は城の侍女だ。彼女はコマツアリマサの世話をして、城にやってくる客を出迎える。彼女にはへそがない。へそは母との繋がりの証で、彼女は生殖のループからも離脱している。何にも執着しない彼女は、誰もが不安になるあの城でただ一人落ち着いている。たぶん彼女は『ハムレット・シンドローム』が結末を迎えたあとも、ずっとあの城にいるのではないだろうか。あの城はコマツアリマサの所有物だけれど、世界は演技に満ちていて、城は消えない。たばこをふかしながら新たな客を待っている彼女がいる限り、次のハムレットはきっと生まれる。