『海を失った男』シオドア・スタージョン(若島正編)

海を失った男 (河出文庫)

海を失った男 (河出文庫)

「音楽」
狂人でない人が狂人の思考を描こうとすれば、どことなく嘘くさくなってしまう。狂人はみな同様に狂っているわけではなく、独自の世界を持っている。彼らは社会の基準を踏み外しただけだ。「音楽」の描写を宙吊りにするような文体は、狂人の思考に踏み込みすぎず、同時に詩にもならずに小説の領域にとどまっているように思う。2ページ強という短さ。


ビアンカの手」
スタージョンはものすごく小説の文章がうまい(そして若島正の翻訳も素晴らしい)。日本語にしても英語にしても、手に主体を見出すようにはできていない。あくまで人が主体になるように文法が構成されている。だから、あたかも手に人格があるように書くと単調になりやすいのだけれど、スタージョンはその障壁を軽々と乗り越える。文章の技巧だけでもじゅうぶんに酔える。ランは真面目な人物だった。そんな人物がふとした拍子に規範から逸れてしまう。明後日の方向に決断してしまう。でもたぶん彼は最後まで真面目な人物だった。


「成熟」
ずっと子供のままのはずだった無邪気な天才を、治療して大人へと成熟させること。成熟とは何か。


「シジジイじゃない」
人と人の関係はまるで虚構と現実の関係みたいだ、と思う。現実にとっての虚構のように不自由だし、虚構にとっての現実のように観測が難しい。「シジジイじゃない」「三の法則」「そして私のおそれはつのる」の三作は、人と人の関係にそれぞれ別の角度から光をあてる。そしてそのどれもが、規範的な人間関係を解体してくれる。


「三の法則」
ぼくときみという二人組にこだわる人たちがいる。もう一方では仲間としての集団にこだわる人たちがいる。この二つの捉え方はまったく違うようで根を共有している。縦糸と横糸が強固に絡みあうように複雑に結びつきあっていて、そこから解放されるためには困難を伴う。スタージョンジェンダーSFの創始者でもあったらしいけけど、この「三の法則」からはその片鱗がうかがえる。二かける三は三かける二。男女の関係が残り続けているのが不思議な感覚。


「そして私のおそれはつのる」
読んでいて面白かった。文章も読みやすいし、ビルドゥングスロマンの構造をなぞっている。主人公のドンは初老の女性と出会い、彼女に導かれるまま成長していく。しかし、受動的なだけでは成熟できない。ドンはジョイスという女の子と出会い、もう一度問い直す。自分で考えた方法で生きようとする。途中で登場する詩がとてもいい(題名もここからとられている)。結末もさわやか。


「墓読み」
きれいな短編。死者は究極の他者なんだと誰かが言っていたけれど、墓石との向き合い方を考えることは他者との向き合い方を考えることにもなると思った。でもやっぱり大森望の翻訳はちょっと苦手。


「海を失った男」
書き出しから結びまで途切れることなく続く緊張感。スタージョンは初稿の四分の一まで削ってこの作品を完成させたらしいけれど、それは正しい選択だったと思う。分量じたいは短いから一時間ほどで読める。でもその間ずっと張り詰めているから、読み終わったときに身体中の力がぬけるような気分だった。もしこれ以上長かったら疲れてしまうという絶妙な長さだった。語れば語るほどこの作品の価値を下げてしまうような気がするので、このくらいで。とにかくすごかった。