『不死のワンダーランドー戦争の世紀を超えて』西谷修

10/16読了。今年99冊目。
ハイデガーは『存在と時間』のなかで「存在論的差異」について述べた。それは、存在者(存在しているもの)ではなく、存在それ自体について考えようという提案だった。ハイデガーが言うには、近代人は日常にかまけて存在自体を問うことを忘れているが、対象をもたない意識である「不安」を経由することで本来性を獲得し、実存に目覚めることができる。ハイデガーの思想は20世紀の哲学者たちに深い影響を与えたけれど、『不死のワンダーランド』は特にレヴィナスブランショバタイユハイデガー以後として読み解き、現代が「不死」の時代だという結論に至る。
第一章。レヴィナスについて。レヴィナスハイデガーと同じ対象を、まったく別の方向から語った哲学者だ。ハイデガーが希望とともに語った存在への目覚めを、レヴィナスは恐ろしいものとして語る。なぜなら、存在に目覚めることは、存在の非人称性に気づくことだからだ。ここには、アウシュヴィッツの情景が重ね合わされる。レヴィナスは、強制収容所の記憶から思索をはじめた。そこでは、「私」は融解し、はだかの実存がさらけ出される。それはまさに、レヴィナスの語る人称性を失った存在そのものだ。「私」として死ぬことができないという「死の不可能性」に触れて、この章は終わる。
第二章。ブランショバタイユについて。フレイザーの「森の王」の神話が語られる。前任の王を殺すことで自分が王になり、それと同時に自分も次の王に殺される恐怖に脅かされることになるという。これは、前任の王の死と自分の死という「二重の死」に対応している。バタイユはそこに「至高性」を見る。ブランショは「死の不可能性」を語ったが、これも「死の空間」に投げ出され、そこで消えゆく運命を受け入れるという「二重の死」だった。人は「私」として死ぬことはできず、死は公共化している。
第三章。ハイデガーのナチ関与について。ハイデガーがある時期にナチ党員だったことは有名な事実だが、それについて80年代に論争が起こった。ファリアスがその著書『ハイデガーとナチズム』において、ハイデガーの哲学がナチスの思想と深い関わりを持っていると述べ、それを支持する側と擁護する側にわかれて論議が巻き起こった。たとえばデリダも、ハイデガーを擁護する『精神について』という本を書いている。ハイデガーが主体と対象の関わりを排除して哲学をとらえたことを考慮すれば、彼がナチに関与していた事実は彼の哲学に影響しない、と筆者は述べている。
第四章。公共性について。「ハイデガー問題」はメディアで大きく取り上げられたが、その現象自体がハイデガーの批判した数と凡庸の支配する公共性の時代を象徴している。ナチズムは公共性に溺れる人々を新しい神話で励起しようとした。ハイデガーは公共性を脱することで獲得する「本来性」のよりどころを、「民族」に求めたが、そういう意味ではハイデガーとナチズムは一致している。一方で、レヴィナスは固有性の喪失を批判しようとはしなかった。究極的には衆愚政治であるデモクラシーを退行しないための条件として認めるところでこの章は終わる。
第五章。不気味なものについて。「不安」を哲学的な言葉として示したのはキルケゴールだが、20世紀においては不安が物質的に露呈している。ハイデガーはその不安を存在に目覚める契機だと語った。しかし「計算的理性」がはびこる世界では、人々は無自覚に無根化していく。その現象が「不気味なもの」と呼ばれる。これは、ヘーゲルが語る、自然を征服して自己に同化させる力(=否定性)が支配するという世界と一致している。また、フロイトも「不気味なもの」という言葉を用いている。フロイトの「不気味なもの」は、ドッペルゲンガーのような「内界で抹殺されたものが外界から回帰する」ものを指す。
第六章。不死について。この章では、ここまでの「不死」に関する議論を語り直しながら、現代的な問題に言及している。「脳死」は人格の消滅した身体を臓器移植に役立てようという霊肉二元論的な発想だが、筆者は、固有性のない身体と二重化する死を認めたうえで、「私」の人格的同一性を身体の複合性に求めようとする。その姿勢は、収容所でエゴをむきだしにして生き抜いた人々を、一人の「ひと」が生きることはすべての「ひと」が生きることに等しいのだと肯定したブランショの思考と似通っている。
この本の存在は2ちゃんねるブランショスレで知った。ブランショの入門書として紹介されていたと思う。1990年に青土社版が刊行されて、1996年に青土社版から数章が割愛されたこの講談社文庫版が刊行されたらしい。読み始めたのは8月だったから、2ヶ月くらいかけてゆっくり読んだことになる。1章と2章は自分の興味のある領域だったので、レヴィナスバタイユブランショの思想の入り口としてじっくり読んだ。3章はあまり関心のない話だった。4章以降も面白かったけれど、同じ話が反復されているような気がして読むのが滞ってしまった。
哲学には「生の哲学」と呼ばれるものがあって、その反対側には「死の哲学」がある。この本が扱っているのは、そのうちの「死の哲学」にあたるもの。20世紀前半の二つの世界大戦を出発点として思考した哲学者たちを取り上げ、ハイデガーを中心にしてまとめられている。扱われている哲学者は難解なテクストを書く人ばかりだから警戒していたけれど、この本は簡潔な表現が心がけられているように思う。

 しかし「日常性」やその広がりである「公共性」を「頽落」とみなす必要はないし、「頽落」を負のバネとしてここにない「本来性」をあるべきものとして捏造する必要もない。「喪失」はそれ自体の積極性をもっている。「固有性」がありえないということ、「本来性」が不可能だということが、近代の「解放」の帰結だとすれば、その固有性の不在、「本来性」なるものの不可能は、逆に言えば「なにか神のようなもの」の「大空位」の開けそのものでもある。この〈開け〉が積極的なものでないはずがない。第2章で示したように、ブランショは(そしてバタイユも)この〈開け〉に「ウイ」を言ってみせたのだ。(195頁)


2011年1月19日:引用に誤りがあったので訂正しました。