『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀

8/21読了。今年85冊目。
自然主義リアリズムを批判し、ゲーム的リアリズムへ。メタ物語を肯定すること。
第1章が理論、第2章が作品論という構成。
理論編はかなりややこしい。大塚英志を中心に、新城カズマ柄谷行人やその他たくさんの文学論を参照し、それぞれに注釈を加えるようにしてキャラクター小説論の現状をまとめ、そこから東浩紀の見る文学の未来を語り出す。平易に語ることだけを目指せば、もっと薄くわかりやすく書くことはできたと思う。多くの読者を獲得することを前提とした新書という形式で、なぜそこまで先行研究にこだわったのか、いまひとつわからない。
記号の身体で死を描くという「まんが・アニメ的リアリズム」に、キャラクターのメタ物語性が紡ぎ出す「ゲーム的リアリズム」を加え、そのまったく新しいリアリズムを体現するものとしてキャラクター小説(ライトノベル)と美少女ゲームを挙げる。2章ではその実践編として桜坂洋All You Need Is Kill』や麻枝准『ONE』などを批評し、最後は舞城王太郎九十九十九』論で終わる。
たぶんある意味で『ゲーム的リアリズムの誕生』には、自明なことしか書かれていない。この本は自然主義リアリズムしかありえないと信じている人たちに向けて、別のリアリズムの可能性を示すために書かれた本だ。だから、ゼロ年代の小説に親しみ、アニメやゲームを日常的に消費している人にとっては、あまりに当たり前の内容ばかりなのだと思う。
ウェブ上に散らばる批評の一部には、はるか前から『ゲーム的リアリズムの誕生』の提示した概念が浸透している。たぶん『ゲーム的リアリズムの誕生』以前に、どこからともなく誕生したのだと思う。この本はそんな批評のなかの最も先鋭的なものを伝えていないし、伝える気もなかっただろう。この本の目的はあくまで、純文学の世界にそういった批評の存在を知らせることだ。
でもそういう前提に立っても、『九十九十九』論は素晴らしいと個人的に思う。これはぼくが生まれて初めて読んだ批評の文章でもあって、衝撃的な小説について書いた文章がまたこんなにも魅力的になりうることを教えられた文章でもある。ひとつの虚構の世界にとどまる倫理でもなく、虚構を脱ぎ捨て現実を追い求める強度でもなく、すべてが混在するこの現実を肯定する祈り、一瞬を永遠にする愛。これは舞城王太郎という作家についての批評としても読めるし、舞城王太郎にしか書けないものを批評する試みでもある。