『夏と冬の奏鳴曲』麻耶雄嵩

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社ノベルス)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社ノベルス)

10/31読了。今年104冊目。
この物語には、すべてを破局へといざなう巨大な流れがあって、少なくとも巨大な流れを演出しようとする意志があって、この小説の全貌を語り明かすためにはその流れについて語るべきかもしれない。たとえば、解決編で解き明かされずに残された数々の謎に焦点をあて、テクストを深く読みこむことによって真相に接近するという読み方があると思う。あるいは、物語の隅々に表れるキュビズムの思想との共鳴を整理し、キュビズムを学びながら物語の本質に迫るという方法もあるだろう。けれども、ぼくはそういった欲求を喚起されなかった。むしろ、物語の本質からは遠いかもしれないけど、登場人物たちの造型や行動に関心を惹かれた。
物語の中心にいるのは烏有という名の21歳の青年で、医学部をドロップアウトして出版社で準社員として働く彼は、日本海の孤島に取材旅行に行く。その島は和音島といって、20年前に真宮和音という18歳の無名の女優を信奉する若者6人が1年間の共同生活を送った場所で、別れてから20年が経つのを機会にそのかつての若者たちが再び集まることになっていた。今は別々の道を歩む中年となった彼らを取材するのが烏有の目的だった。そして島で殺人事件が起こるのだけれど、それは推理小説の型紙をなぞったような典型的な殺人事件で、あまり特徴的なものではない。『夏と冬の奏鳴曲』を推理小説のコードから遊離させているのは、結末に訪れる絶望的なカタストロフィや、物語に通底する探偵小説としての気高さみたいなものだ。殺人事件は、それ自体は単調な悲劇でしかないように思える。
烏有という青年は、その名が示すとおり、中身のない空っぽの人物だ。11歳のとき、東大医学部の学生が彼の身代わりになって車に轢かれて命を落とした。それ以来ずっと烏有はその学生に憑かれている。烏有はその学生の人生をシミュレーションしようとする。ひたすら受験勉強に励み、東大医学部に入学しようとする。烏有のアイデンティティはその学生の歩んだ道をなぞることによって支えられていた。でも彼は受験に失敗し、浪人して挑んだ翌年も失敗し、何とか滑り込んだ三流私大の医学部からもドロップアウトした。烏有は自分がその学生とは異なる人間だということに気づく。存在意義は失われる。
烏有は桐璃と出会う。彼女は17歳の高校生で、ぼんやり日々を消化するだけの烏有を暗い世界から引きずり出す。空っぽに戻った烏有が彼女を守ることに存在意義を求めたのは当然の帰結に思える。誰もが烏有のように空っぽではないけれど、自己完結した人格なんてほとんどなく、他者に依存したり他者を所有したりすることでしか存在意義を保てない。烏有は現実を生きる人たちの歪んだ像として描き出されているような気がする。
東大医学部に通う好青年という像を病的になぞることよりも、女の子を守ることの方が、はるかにかっこいい生きがいだ。烏有の成熟の物語は、ここで完結している。ここからは、終盤のカタストロフィと烏有の決断について語らなければならない。ネタバレせずに語ることが難しくなってきたので、曖昧で不明瞭な表現が増えるかもしれないけれど、できるだけ語ってみる。
たとえば佐藤友哉フリッカー式』を思い出す。あれは妹を奪われた青年が、犯人の娘たちに復讐する小説だった。この主人公の決断は明らかにおかしい。犯人に復讐するならともかく、その娘は何の関係もない。倫理に悖るのはもちろん、まったく合理的ではない。主人公を突き動かしているのは本当に復讐心なのか、それとも歪んだ欲望なのか。このように普通に健康的な一般市民として生活していた人が突然意味のわからない決断をするというモチーフは決して珍しくない(たとえば、これと同型の短編を集めた作品集としてスタージョン『輝く断片』が挙げられる)。そこには決断に伴う魔力のようなものが働いている。
いくつかの類似点を考慮すると、たぶん『夏と冬の奏鳴曲』は『フリッカー式』の元ネタのひとつなのだと思う。『夏と冬の奏鳴曲』で提示される選択肢は、決断する前からあまりに救いがない。風景が崩壊していくなか、烏有は空虚な自己で思考する。ひとりの人物の決断に宿るカタストロフィは世界から切り離されているが、だからこそ読者はこの結末に嘆くことしかできない。物語はどこまでも烏有に冷淡で、最後の最後まで破壊し尽くす。ぼくは読みながら、ただこの結末を受け入れるしかなかった。
結末は壮絶だけれど、『夏と冬の奏鳴曲』には難点も多い。最初の400ページはあまり起伏のない展開で、推理小説の描写が好きでないぼくには少しつらかった。評価の高い作品だと知っていたから我慢して最後まで読んだものの、もしそうでなかったら放り出していたかもしれない。烏有と桐璃以外の人物はきわめて凡庸で、いかにも推理小説の登場人物らしい振る舞いをするのも残念だった。でも、『夏と冬の奏鳴曲』が新本格の枠組みのなかでしか書けない作品なのも確かだし、やがて新本格が忘れ去られても残るだけの強度をもった作品だと思う。