『シンセミア』阿部和重

シンセミア(上)

シンセミア(上)

シンセミア(下)

シンセミア(下)

10/11読了。今年96, 97冊目。
ネタバレをふくみます。
上下巻合わせると800ページに及ぶ長大な小説で、神町サーガの中核をなす作品。三部作の第一部らしく、今年の春には第二部『ピストルズ』が刊行されて話題を呼びました。神町サーガを構成するのは三部作だけではなく、『ニッポニアニッポン』や『グランド・フィナーレ』といった作品も世界観を共有しているそうです。
舞台となるのは東北の「神町」という名の地方都市です。神町は現実に存在する町で、阿部和重の出身地でもあります。神町郷土史を参考に、阿部和重が構築した偽史を重ね合わせ、娼婦街と米軍基地とヤクザとパン屋と交番が建ち並ぶ神町がかたちづくられています。
おおざっぱに一言でまとめてしまえば、『シンセミア』は欲望が描かれた小説です。たくさんの人物が登場し、2000年の夏に神町で起こった事件の複雑な成り行きが語られるのですが、彼らの行動原理はきわめて単純なものです。盗撮したいとか、ドラッグに耽りたいだとか、少女を見守りたいだとか、町を支配したいとか、そういう素直な欲望に従って彼らは行動します。所有や蕩尽のような男性的な欲望が特に多く扱われ、登場人物の多くは破滅的な最後を迎えることになります。
だけれど、そのような単純な原理だけに従って小説が動かされるわけではなく、ところどころに単純な欲望を食い破って登場人物が行動する場面があり、そういう場面にこの小説を読み解く鍵があるように思えます。たとえば中山正という人物がいます。彼は神町の交番に勤める若い警官で、冷静かつ理知的で正義感が強い人物です。しかし、彼が警官になったのは、制服を隠れ蓑に町で少女を見守り、ロリコン的な欲望を満たすためです。彼は物語の最後で悲劇的な結末を迎えますが、そのときの彼は自分の運命を呪いながらも、自分の信念を貫いて清々しい気持ちがあったのではないかと思います。彼のヒロイックな願望は、反社会的で滑稽なものでありながらも、ひとつの美学をなしていました。
あるいは、田村博徳という人物がいます。彼は神町のパン屋の老舗「パンの田村」の跡継ぎです。強烈な個性をもつ人物の多い『シンセミア』では、比較的普通の感性の人物です。彼も『シンセミア』の主要登場人物のひとりとして破滅することになりますが、彼はこの夏をとおして大きく成長しています。序盤では盗撮を主な目的とするビデオサークルに入っていた彼は、妻との関係に悩み、妻とわかり合うために努力するようになります。妻を思いやり、幸福な家庭を築こうとする彼の存在は、この小説のなかで浮きあがっています。
上巻の最後の方で、登場人物の一人が本屋でカモフラージュのために近くにあった本を手にとる場面があります。その本はフォークナーの『八月の光』だと記されています。フォークナーを参照点として『シンセミア』を書いたのだと、わざとらしく示した、ということだと思います。しかし、(『八月の光』は未読ですが、『アブサロム、アブサロム!』や『響きと怒り』を読む限りで)フォークナーが錯綜する語りと迂回を繰り返す文体を用いたのに対し、阿部和重は直線的で説明的な文体を用いています。あまり似た小説だとは言えません。それなのに、ともに神話的な空気を共有しています。フォークナーが時間と空間を何度も何度も執拗に折り返して達成したものを、阿部和重は平板さを徹底するというまったく逆の方法で達成したように思えます。
欲望という観点だけでは『シンセミア』を読むのにまったく不足しています。この小説はその分厚さに見合うだけの多彩な要素を含んでいます。例えば、田村博徳は妻の和歌子と共に東京に旅行したときに、ダンプカーが人を虫けらのように容赦なく轢きつぶしていく事故を渋谷で目撃します。自然と一昨年の秋葉原通り魔事件を思い出すのですが、この小説が刊行されたのは2004年です。阿部和重はデビュー作から現代を鋭く見抜く感性をもっていましたが、まるで予言者かのような先見性には驚かされました。
たいして書くこともないのにだらだらと書いてしまいました。次からは短くコンパクトに感想を書きたいところです。