十文字青『絶望同盟』の感想に書き忘れたこと

4人の高校生たちは毎日昼休みに教室を離れ、靴脱ぎに集まる。なぜかというと、教室はなんとなく居心地が悪いからだ。四方を壁に囲まれていて狭苦しく、同級生たちのやけに大きな話し声で騒がしい。靴脱ぎに集まる彼らは教室になじめない人たち、主流からはずれた落伍者だ。
たとえば田中ロミオの『AURA』というライトノベルでも、いわゆるスクールカーストの低い人たちの文化が扱われる。ファンタジーにのめりこみ、惨めな自分をごまかす人たち。物語の序盤では、主人公はスクールカーストの高い人たちに遠慮しながら、自分の地位に見合った高校生活を送ろうとする。だけれど彼は徐々に中二病的想像力を肯定するようになり、スクールカースト上層までもがその想像力を認めるところで物語は終わる。すなわち、スクールカースト下層の想像力が上層の人たちを呑み込んでゆく。
一方で、『絶望同盟』では教室でのヒエラルキーはまったく描かれない。ネンジやカオルは教室でうまくやっていけないと語るけれど、そういった問題は彼らの側に引きつけられてモノローグとして現れるし、サナの友人たちが数人登場するけれど、彼女らはありふれた会話を繰り返すだけのロボットと大差ない。スクールカーストの階級構造はもはや存在せず、教室の外側だけが描かれる。
彼ら4人の結びつきは、対立項を共有することで成り立つ同盟ではない。彼らそれぞれに絶望する対象があるけれど、それぞれ違っている。彼らは絶望を共有しているわけではなく、絶望しているという事実を共有している。問題は各自で解決するしかない。
だからこそ彼らの結びつきはきっと強い。彼らは互いを監視しているのではなく、互いを見守っている。人と人のあいだには大きな隔たりがあって、他者の問題には決して介入できないことをよく知っているからだ。
彼らの友人関係にどうしても惹かれてしまうのは、互いを見守るまなざしが、絶望を抱えながらもとても純粋な優しさをもっているからかもしれないと思った。

絶望同盟 (一迅社文庫)

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