『ミステリアスセッティング』阿部和重

ミステリアスセッティング

ミステリアスセッティング

11/23読了。今年114冊目。
阿部和重はデビュー以来ずっと、思い込みの激しい男性を中心に据えて小説を書いてきた。『アメリカの夜』の中山唯生は、「秋分の日」生まれの自分は「春分の日」的なものと戦わなければならないと決心して滑稽な争いを巻き起こした。『シンセミア』は男性も女性も多数登場する群像劇だったが、その世界観は暴力性を基調とした男性的なものだった。その傾向はロリコン趣味に憑かれて人生を破綻させる『グランド・フィナーレ』の主人公まで、ほとんど例外なく継続していたように思う。
『ミステリアスセッティング』でその傾向が打ち破られる。主人公はシオリという少女で、彼女は今までの阿部和重作品の登場人物とは一線を画している。彼女は生来のものすごい音痴なのに、吟遊詩人を目指す。吟遊詩人というのが具体的にどんな生き方を指しているのか、よくわからない。とにかく吟遊詩人になりたい、と言う。妹には厳しすぎるくらいに諭され、友人には裏切られ、それでもシオリは挫けない。どこまでも純朴に健気に生きていこうとする。結末で彼女はその純朴さゆえに奇跡を起こす。そこで老人が子供たちに語る物語は終わる。という子供時代の思い出を、聞き手の一人だった人物が回想する、という構造になっている。
この小説はケータイサイトに連載された。だから、シオリはケータイ小説の主人公たちのパロディなのだ、という見方もできるだろう。でも、むしろぼくは、シオリは「聖なる愚か者」に近いのではないかと思う。ドストエフスキーが『白痴』のムイシュキン伯爵を「無条件に美しい人物」として描き出そうとした。それを受け継いだ鹿島田真希はそのモチーフを自分の小説の中に取り入れた。それらの小説を読んだときと同じような印象を、『ミステリアスセッティング』にも抱いた。「聖なる愚か者」は世の中を要領よく渡ってゆくことはできないけど、その高潔な正直さはやがて奇跡を起こすかもしれない。みすぼらしさはある瞬間、唐突に反転する。
この奇跡の物語は、世代を超えて語り継がれていく。その過程を何重にも伝聞を重ねることで表現しようとしたのは素直に面白いな、と思う。奇跡は瞬間的なものだから、何度語り直されて枝葉末節は変化しても本質的には変化しえない。そういえば『奇跡も語る者がいなければ』という小説があった。そこには奇跡とその奇跡が語られてゆくことの不思議な関係が表現されていた気がする。
きっと阿部和重は『ピストルズ』において、女性的なものにもっと深く潜りこんでゆくのだろう。春になって植物が活気づく頃に読めればいいなと思っている。