『冷たい校舎の時は止まる』辻村深月

冷たい校舎の時は止まる (上) (講談社ノベルズ)

冷たい校舎の時は止まる (上) (講談社ノベルズ)

『冷たい校舎の時は止まる』の世界は、それほど遠くにあるわけではない。これはセンター試験を控えた受験生たちの物語だ。それなのにどうしても隔たりを感じてしまうのはどうしてだろう、と問うてみる。そして、自分の側にあるのにこの物語の側にないものと、この物語の側にあるのに自分の側にないものを整理して、両者の決定的な差異は虚構と現実の差ではない、と信じてみる。
8人の高校生が、雪に閉ざされた校舎に閉じこめられる。男子が4人、女子が4人。他には誰もいない。ミステリだけれど、殺人事件は起こらない。ただひたすら自殺したのは誰か、と問い続ける。だから解決編は、名探偵が登場して真相を訥々と述べるのではなく、登場人物全員が忘れてしまっていた真相を思い出すことで遂行される。彼らには順番があって、ひとりづつ、モノローグのなかで真相を思い出す。誰かが自殺したという事実は、各々が受け止めなければならない。いつも仲良く一緒にいても、世界を抉る事実と向き合うときはひとりになる。
でも、この世界に共感することはできない。各々のモノローグが分離されていて、結局自分と向き合ったときに回想するできごとが高校の友人と共有していない思い出ばかりなのは、友情の希望と絶望が感じられてよいと思った。けれども、彼らの回想する思い出が、菅原のものを例外として、何となく単調な回路に収まってしまっている気がするし、登場する男の子が全員強くて優しく、女の子は男の子の庇護下に入ろうとする、というパターンのもとに描かれているのもホモソーシャルヘテロセクシャル的な世界観が感じられて気に入らない。だからぼくは、この世界が美しいとも、何らかの真実を書くのに相応しいとも思わない。
それでもこの小説を放っておけないのは、『冷たい校舎の時は止まる』の過剰さが現実味をもって現れる瞬間をぼくが探しているからだろうと思う。例えば『恋空』というケータイ小説のことを思い出す*1のだけれど、ケータイ小説の担い手の女子高生たちは、「リアル」という言葉を用いていた。彼女たちの言う「リアル」は、大人たちにとっても、その文化の外側にいるぼくたちのような高校生にとっても、過剰に戯画化されているように思えた。つまり、妊娠とかレイプとかそういうのは、彼女たちの誰もが体験する現実を描いていたとは思えないし、一部の人たちはそういった不幸を身近に体験したのかもしれないが、それを多数の人が「リアル」だと言うのはおかしいのではないか、という疑問だった。しかし一方で、あの世界観が彼女たちにとってある意味での真実を示していたのは間違いないと思う。「リアル」という言葉で表現されるのは、現実よりもはるかに過剰な体験に満ちた世界だった。たぶん彼女たちはある条件の下で、ケータイ小説のように現実を見るのだろうし、ケータイ小説のように物事を感じるのだろう。
『恋空』の世界は『冷たい校舎の時は止まる』よりも接点が少なく、遙か遠くに感じられるけれど、これらの小説は共通して、盲目に自分の信じる「リアル」を貫いているように思える。外側からは滑稽にしか映らなくても、彼らは現実の生々しさに打ちのめされるような体験をしている。はたしてぼくはそのような体験をしたか、と問うてみる。盲目を捨てることばかり考えて、結局自意識の内側で堂々巡りをしているだけじゃないのか。権威づけばかりを求めて、誰にも保証されなくても決断する強さを失ってはいないか。でも、こんなことはずっと前から問い続けているのだった。そのために、自分の今いる場所で、どこかに隠れていた誰かの「リアル」がたまたま顔を出す裂け目を探しているのだった。たとえばケータイ小説がブームになったときみたいに。でも、自分の足で歩け、というのは確かに、まったく正しいのだった。

*1:このあたりは濱野智史アーキテクチャの生態系』を参考にしました。http://wiredvision.jp/blog/hamano/200801/200801151110.html