2011年の大晦日に

JR山手線に乗っていたら見慣れた写真が視界の隅をかすめた。三人の若者が写ったモノクロ写真。みな揃って頭にはシルクハット、右手には杖。スーツを着てぬかるんだ道を歩いている。三人の顔は似ているとは言い難く、いったいどんな状況で撮られた写真なのか、まったく想像できない。アウグスト・ザンダー「若い農夫たち」。リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』*1の表紙になっている写真だ。山手線で見たそのドイツの風景は写真展の広告だった。今年の一月に読んだアメリカの小説のことを思いながら、帰省するまえに美術館を訪れておこう、と決めた。
定期券圏内の渋谷から恵比寿まで歩き、年中クリスマスの空気を漂わせていそうな(そのときは実際にクリスマスシーズンだったのだけれど)恵比寿ガーデンプレイスを横目に、東京都写真美術館に辿り着いた。七人のヨーロッパ写真家を取り上げるという写真展だった。時代は19世紀の後半から戦間期くらいまで。現像の手法が試行錯誤を繰り返しながら進歩していくさまを体感することができた。
建築物を中心に撮った写真もよかったけれど、遠い時代を生きる市民を写した写真が面白かった。その写真展の中ではジョン・トムソンというイギリス人の写真が最も古く、19世紀のイギリス市民たちはむずがゆそうな笑顔を彼のカメラに向けている。まだ写真という技術が世間に知れ渡っていなかったのかもしれない。だからロンドンの街で生活する彼らは写真をとってあげると言われても、どんな表情をすればいいかわからなかったのだろう。なんだかよくわからないけど黒い箱を持った青年がおれたちの姿を未来に残してくれるらしいぜ。そうやってレンズにむかって、やがて写真を見る未来の人々にむかって精一杯微笑んでみせる。
順路に沿って歩いてゆくとアウグスト・ザンダーは最後だった。いままで彼の写真は「若い農夫たち」しか見たことがなくて、他の写真を見ることでやっと、彼の試みの一端を理解できた。彼の目的は当時の市民のさまざまな身分・職業を網羅することだった。家族を撮った写真もあれば、一人の人物を撮った写真もある。ふと思いついて、題名を見ずに写真だけを見て写った人の職業・身分を当てる、というゲームをひとりでこっそりやってみた。教師だと思ったら神父だったとか、官僚だと思ったら社長だったとか、かんたんそうに見えて意外と難しく、正答率は二割くらいだった。
軽い気持ちで見てまわるなか、「若い農夫たち」だけはなめまわすように観察した。かつて『舞踏会へ向かう三人の農夫』の語り手がしたように。そしておそらくリチャード・パワーズもしたように。さらには『舞踏会へ向かう三人の農夫』の読者たちがしたように。三人の農夫が奇妙な写真家の背後に幻視した人種も年齢もさまざまな人々、そのなかに自分も交ざっているのだと思うと不思議な感慨があった。実物の写真は本の表紙よりも小さく、美術館で見たからといって何か新しい発見があるわけではない。儀式のようなものだ。過去と未来がひとまとめの束になって視線の交錯する点に現れる。そういう現象を信じるための儀式。

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫


一駅分の電車賃を節約しようと、帰りも恵比寿から渋谷まで歩くことにした。そして迷ってしまう。行きに通ったのと同じ道を歩いているつもりでまったく違う方向に進んでしまっていた。冬至まであと数日という頃で、日が沈むのも早かった。夜の東京はよそよそしく感じられた。自暴自棄になってそのまま歩き続けた。やがて進行方向に見た建物に恐怖を覚えて足を止めた。六本木ヒルズ。ぎらぎらと光るネオンをまとい、傲然とそびえ立っていた。知ってはいけないものを知ったような気分だった。毎日のように地下鉄で真下をくぐっていながら、自分の行動範囲の近くに存在することが信じられなかった。無闇に歩くのを止め、買ってから四年が過ぎた携帯電話で地図を見ながら、渋谷へ向けて引き返し始める。
首都高の下をせっせと歩きながら、夏の終わりに同じように道に迷ったときのことを思い出していた。青春18きっぷの季節にJRの在来線を乗り継いでゆき、辿り着いた田舎の村でふらふらと歩いていたら迷ってしまったのだった。まだ空は明るかったけれど、電車は一日に数本しかないから、その時間までに駅を見つけられなかったらこの地域で一泊しなければならない。そう考えると心配になって、ここが古い因習に縛られた恐ろしい村だったらどうしようと不安が募った。もともとは新海誠の映画のような美しい風景を求めてやってきたはずなのに、現実にあった(と妄想していた)のはフォークナーの小説のような都会的な洗練から離れて熟成された偏狂な世界だった。このときも古い携帯電話に助けられて駅に辿り着くのだけれど、覆された世界観はもう戻らない。高校生が騒ぐ地方の電車で、自分が遠く離れてゆくような感じがした。自分の体験を一人称で語ることを不自然に思い始めたのもこのときだったかもしれない。
二人称小説として有名なミシェル・ビュトールの『心変わり』は、ある中年男性がパリからローマへと鉄道で移動する二十四時間を描いた小説だ。そのあいだに甦ってくる過去の出来事やローマに着いてから起こるだろう未来の出来事が挿入されながら鉄道はローマに近づいていく。ビュトールは「きみ(vous)」という二人称を用いることで、「ある事態をしだいに意識してゆく過程」*2を描いた。語り手と主人公の距離は徐々に縮まり、心変わりという一点に結実する。この距離感は、パリとローマという二つの都市のあいだの主人公の位置と複雑に絡み合う。
おそらく『心変わり』から影響を受けている、多和田葉子の『容疑者の夜行列車』*3においても夜行列車で移動する人物が二人称で語られるが、語り手と主人公の距離は少し異なる。ここでは主人公は永遠の乗車券を持った容疑者であり、「あなた」と呼ばれているのは取り引きが原因だった。ともあれ、都市と都市のあいだの距離が、語る自分と行動する自分の距離に重ね合わされるという点では一致している。都市を移動しているうちに、確固とした語り手がどこかへ発散してしまうのだ。
思えば、ちょうど一年前の大晦日シオドア・スタージョン「海を失った男」*4を読んだときからこの呪縛は始まったのかもしれない。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』*5は、理想の物語の求めて世界中を駆け回る人物を描くために二人称を必要とした。大学入試の合格発表の日に読んだクレア・キーガン「別れの贈りもの」*6は、長いあいだ住んだ家を出て都市へと発つ日のことを、張り裂けそうな感情が膜一枚で保たれているような二人称で語る小説だった。これらの小説はそれぞれ別の目的のもとに二人称を用いているけれど、語り手と主人公のあいだに開いた溝は、どれも似たような形をしている。
一人称の語り手に放り出された人たちは、ふたたび一人称で語るために、彷徨を終わらせる必要がある。残念ながら、列車が終点に着いてもやがてまた別の列車に乗らなければならず、いつになっても終わりは見えない。これはいわば逆方向への自分探しで、自分探し以上に不毛だし、語り手があきらめてくれるのを気長に待つしかないのかもしれない。
でも、気まぐれな語り手が戻ってきたそのときには、過去と未来が交わる点のことを、知らないものに出会ったときのわくわくした気分のことを、虚構と現実を分ける壁を押し流すくらいの勢いで雄弁に語ってみたいと思う。気まぐれな語り手と友達になれば、紙の裏側から、境界線上に浮遊する場所から、物事を語ることができるかもしれない。とはいっても今できるのは、来るべき予定調和に溢れた未来を、語り手と同じくらい気まぐれに振る舞ってみることくらいだけれど。


2010年の終わりに - my beds on fire