空白期間を埋めるために

4月

上京。生活必需品すら揃っていない空っぽの部屋でしばらく生活していた。所有しなければならないものは意外に少ない。やがて何かが置かれるという期待だけが白い空間を支配していた。部屋における一挙手一投足に刹那的な快楽が伴った。抽象的なかたちのイメージが現れては消えていった。

殊能将之鏡の中は日曜日

本格ミステリにでてくる建築物には構造しかない。トリックのための道具だからだ。間取りで過不足ない。過剰な装飾があるとそこには書かれているが、過剰と描写される限りにおいてそれは過剰ではない、ことが多い。法螺貝を象った梵貝荘という建築物。やはりここにも装飾はないけれど、美しさが構造に宿る。構図がきらびやかに反転する美しさ、それが新本格の本質だったはずだから、梵貝荘の美しさにはトリックの美しさが映し出されている。

フランツ・カフカ『城』

カフカを読み始める。

シェイクスピア『オセロー』『テンペスト』『リア王

重い本を読む体力も持ち運ぶ体力も不足していたから戯曲を読むことにした。朝の東京メトロに詰め込まれて毎日少しずつシェイクスピアを読んでいった。『テンペスト』の軽やかさが楽しかった。すべて小田島雄志訳。

梅雨

記憶にない。

佐藤友哉「星の海にむけての夜想曲

明日も五時半に起きなければならない。夏の夜を散歩していると強迫される。何と戦っているのか、ふとわからなくなる。東京の道は曲がりくねっていて見通しが悪い。高い建物ばかりで空が狭い。関東の空は超越に繋がっていると言った人がいたけれど、その超越はあまりに狭い出口だ。何のための戦いか。それは勝利するためだし、かつて幻視した風景にたどりつくためだ。探し求めた風景は一瞬だけ現れすぐに消える。だからこの戦いは終わらないし、死ぬまで動き続けることを義務づけられている。『フリッカー式』から10年が経ち30歳になったいまでも変わらないものがある。青春の終わりを告げることで終止符を逃れるもう一つの青春がある。

フランツ・カフカ『審判』

カフカを読み続ける。

ジョルジョ・アガンベンバートルビー 偶然性について』高桑和巳訳

しないほうがいいのですが。メルヴィルバートルビー」が収録されている。授業が始まる前の教室で微睡みながらページをめくった。何ひとつ覚えていないはずなのに言葉が沈潜している。しないほうがいいのですがと口から漏れ出す。漏れ出す口を戒めるためにアガンベンを読む。

夏休み

寒かったような気がする。

それ以外のカフカ

『失踪者』、『変身』、短篇や断章。カフカが終わる気がしない。『失踪者』は登場人物がコミカルで好きだ。「家父の気がかり」のとりとめなさと編み目の緻密さ。

ナボコフを読むために

『書きなおすナボコフ、読みなおすナボコフ』『ディフェンス』『ナボコフ 訳すのは「私」』『ナボコフ万華鏡』『カメラ・オブスクーラ』。拘束の少ない生活を得て始めにしたのがナボコフを読むことなのだからわかりやすい。ナボコフは触れられない幼少期の記憶に、芸術を介して接近しようとする。繰り返し登場する美しい少女のモチーフも芸術を覗くためのスコープに過ぎない。初期短篇の「ナターシャ」は、たぶん技術的には未熟なのだけれど、そこには作家としての初期衝動のようなものが見え隠れしている。老人を介護する少女と嘘吐きの青年。夜の街の灯り。ナボコフは最期まで旺盛さを失わなかったが、作家の誕生に決定的な喪失が絡んでいたのだと考えればそれも頷ける。

フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』友枝康子訳

ぼくはいつでも逃げ出せる場所にいたから、と友人に言うと、でもきみは努力していた、と言われた。窓のない地下の密室で過ごした記憶は瞬く間に薄れ消えてしまった。靄が立ちこめた暗い記憶を、いまなら自嘲気味に語ることができる。骨が少し磨り減っただけで、すべては元の状態に戻ったのだと口にすることができる。密室から逃げ出してきたここもまたもうひとつの密室にすぎないのだから出口はないとありふれた絶望を振り翳すこともできる。そうやって浮かべた冷笑がひきつり唇のはしが痙攣する。そんなときに涙が流れたら。そういう小説。