シルバーウィークの終わり

 こういった連休は、長い時間を読書に割くことになるので、読み詰まり・読み疲れを防ぐためにリーダビリティの高い本を読むようにしている。中三の冬休みにロシアの長い小説に挑戦して、二週間経ったのに一冊しか読めていない、みたいなことになったのを反省して、試行錯誤のうちに今の読み方に落ち着いた。でも最近は、平日がどんどん忙しくなるのに対して休暇はどんどん暇になり、読書はほとんど休暇にするものみたいになってきて分量的にミステリやSFが多くなり、長編の海外文学が読めなくなっている。例えば、『アブサロム、アブサロム!』なんかはそうやって先延ばしにされてる小説の代表例だ。しかし、よく考えてみると『百年の孤独』は平日の睡眠不足の中読んだからか、あまり集中して読めたとは言い難い。つまり、この読み方に疑問を呈せざるを得ない。では、いつ長い小説を読めばいいのかというと、たぶん今のぼくの生活の中には適切なタイミングはない。毎日3時間くらいコンスタントに読書時間があれば、ちょうどいいのだけど。ならば、どこかを削らなければならない。真っ先に思い浮かぶのは睡眠時間だけど、これは本末転倒だ。そうすると、授業時間を睡眠や宿題に費やす、とかそういった器用なことをするくらいしか、時間の作りようがない。しかし、ぼくに読書のために日常生活のほんの一部でも犠牲にする情熱があるのかというと、ない。なるほど、はじめからここに問題点があったのか。
 読了リストを眺めていると、まったく一貫性がない。感想からも、熱意や感動や愛は感じられない。特定の作家や作品に没入してしばらく日常生活に戻ってこないような経験もない。偉い文学作家の方々は「青春時代はよく学校をサボって読書に耽ったものです」とか、「机の下に本を隠して読むほど熱中した」とか言うけど、ぼくにはそんな経験はない。授業中に本を読んだことはあるけど、それは机の上で、教科書に隠すことなく、堂々と読んでいたのであって、つまりいつでもネタにする準備をしていた。すぐネタに逃げるのは世代のせいだよ、なんて言い訳していたけど、それもそろそろ限界だろうか。
 存在を揺さぶられるような体験をしてみたい、でも、生活を犠牲にする気はまったくない。けっきょく、妥協して大作を軽く読み流すようになり、自分をごまかしてその読み方に満足して、だんだんと多忙な社会人になるために変化していくのだろうと思う。そろそろ中二病の神様に見放されたみたいで、あまり痛々しいことを言うと胸が痛むのでこのあたりで。