『絶望同盟』十文字青

絶望同盟 (一迅社文庫)

絶望同盟 (一迅社文庫)

9/25読了。今年93冊目。
ネタバレがあります。
4人の登場人物、つまり当間ネンジ、蓮井カオル、木羽ミキオ、雫石サナに、それぞれ一話ずつ割り当てられ、各々の悩みが語られる。たとえば当間ネンジは小学生しか愛せない自分に絶望しているし、蓮井カオルは女としての自分の魅力のなさを覆い隠すために顔に包帯を巻く。
彼らは気の合う友人でもなければ互いに支え合う仲間でもない。でも何となく毎日昼休み靴脱ぎ(下駄箱の前)に集まる。豊かな会話が繰り広げられるわけではない。あるのは当間ネンジと木羽ミキオの出来損ないの漫才みたいな会話の断片。他の二人は滅多に口を開かない。たぶん彼らにとっても読者にとってもその空間は快楽ではない。これが何度も何度も繰り返される。
そして最終話、「それを希望とは呼ぶまい。」と題されたそこで、緩やかな昼休みは切断され、4人のうちの一人が行動を起こし、彼らに未来が開けたところでこの小説は終わる。その未来というのは、花火とか、お祭りとか、海に行こうだとか、そういう未来。そしてその先には受験が迫っている。つまり、彼らは受験生だ。4人で遊ぶ未来には、既に終点が刻印されている。
最終話に4つの絶望は突破口を発見し、それまでの鬱屈した生活が嘘だったかのよう。でも嘘ではない、嘘にしてはいけない。最終話のために絶望を語る4話があるのだという考えを看過してはいけない、と思う。すれちがい、ディスコミュニケーション、同じ場所にいるのに関わり合わない微妙な距離感、即物的に中断される突飛な思いつき、イラストのなかで実現される淡い願望、そういうものが黙々と積み上げられる状況は本質的には変化しない。4人で一緒になって思い出を作り上げているその最中にも、時折言ってはいけないことを言ってしまったり、叶えられない夢を見てしまったり、そして子供はつくれないままだ。きっと彼らは明るい未来を手にしてからも、本質がきしんで耳に痛い音を鳴らしていた日々を忘れ去ることはない。
『絶望同盟』の本文には「絶望」という名詞が出てこない。題名にそう書かれているだけで、登場人物たちが自分の感情を絶望と名づける場面はない。ぼくが見つけた限りでは、「絶望」という文字列が登場するのは一箇所だけ、「一つの部屋に、同じベッドの上にいて、でも、二人の距離は絶望的に離れている。それはとても悲しいことなのかもしれない。だけれど、そんな悲しさもすぐに薄れて、なくなってしまう」(p.273)。それは希望についても同様。でも、悲しくはない。