『奇跡も語る者がいなければ』ジョン・マグレガー(真野泰訳)

奇跡も語る者がいなければ (新潮クレスト・ブックス)

奇跡も語る者がいなければ (新潮クレスト・ブックス)

9/18読了。今年90冊目。
ある通りがあり、そこには30軒の家が立ち並び、数十人の人が住んでいる。何の特徴もないそのような通りなら、ひとつの町の中にいくらでも見つけることができるし、世界中には数えきれないほどの通りがある。それぞれの通りに漂う空気は少しずつ違っているが、唯一無二と呼ぶには外部とを隔てる境目があまりに不確かで、住人は絶え間なく変化しているし、ひとりの住人が引越して別の住人がそこに住み始めることもある。
ある瞬間におけるある空間を占めるすべてを書きつくそうとしても、言葉はそれほど強靭なものではなく、瞬間への執着は足元を掬われることになる。フォークナーは『アブサロム、アブサロム!』の冒頭で老婆の住む家に漂う塵を描写しようとしたけれど、あれは熱病にとりつかれたような小説の冒頭部だったからよいのであって、もしあの執拗さが長く続けば時間の進む速さに取り残されてしまったのではないかと思う。
『奇跡も語る者がいなければ』の文体もある瞬間ある空間の隅々まで描き出そうとするけれど、語り手を駆動するのは執拗さではなく、日常の機微を読み取り小さなものをすくいあげようとする優しい眼差し。たとえば冒頭では、ひっそりと静まり返った深夜の町に、音が鳴り始め、音楽を奏で、やがて夜が明ける。実は日常は音楽に満ちているのだという押し付けがましい啓蒙でも、語り手の視点からなら退屈な雑音も音楽に変わるのだという語り手の高慢でもない。そっと取り出された夜明けの風景を工夫の凝らされた文体にのせて流し、音楽を結晶させる。語り手の誠実さが自然に通り抜ける道をつくってやればいい。
『奇跡も語る者がいなければ』という題名は、いくつかの意味を孕んでいる。小さな奇跡はありとあらゆるところで起こっていて、そのほとんどは無視され、捨てられ、失われる。18番地のドライアイの男の子は、がらくたと間違われそうな小さな物を集めている。彼は22番地の小さな眼鏡の女の子に恋をしているけれど、お互いのことを何も知らない。彼女は翌日に引っ越していってしまう。そのささやかな恋はおそらく、このまま何も変化せず時間の流れから置いて行かれるのだろうと彼は思っていたのではないかとぼくは思う。彼が奇跡を起こすことと、彼の起こした奇跡がどのように語り継がれていくかはまったく別のことだ。彼はその小さな隙間にいた。
そしてまた、この奇跡を語るのはジョン・マグレガーという作家だ。彼は奇跡を語るけれど、彼が語るのは奇跡だけではない。もし奇跡を語りたいだけなら、そこまでに語られる朝から午後までの日常はあまりに長い。たぶん、奇跡を語ることと日常を語ることはほとんど同じで、奇跡は日常の音楽的な高まりとして起こる。恣意的に意味づけたり、噂になって人の間を伝わっていたりするとき奇跡は奇跡でなくなる。日常への優しい眼差しが奇跡を語るうえでとても大きな役割を果たす。
マグレガーの原文がどのような英語で書かれていたのかはわからないけれど、真野泰の訳は本当に素晴らしかった。たぶん普通の訳しやすい文体ではなかっただろうから、日本語に訳すなかで原文のニュアンスをそのまま残すことは難しかったと思う。でもじゅうぶんにリズム感のある音楽的な文章で、読んでいて楽しくなるような文体だ。そしてまた、文を終わらせることを拒むような、句点を先延ばしにするもどかしげな文体もよかった。