『僕らはどこにも開かない』御影瑛路

僕らはどこにも開かない (電撃文庫)

僕らはどこにも開かない (電撃文庫)

9/3読了。今年89冊目。
とてもおもしろかった。読んでいるあいだ色々なことを考えた。色々なことを考えたから、ひとつの連続した文章として感想を書くか、それとも箇条書きでいくつかのトピックにわけてメモしておくか、どうするべきか迷う。そこで思い出すのは、この小説がとてもシンプルな文体と骨格で思想をむきだしにするように書かれていたということで、読者は自分の核のようなものを突かれるとたくさんの衝動や発想を引き出すことができるのではないかと思った。
『僕らはどこにも開かない』は装飾の少ない、不器用な小説だ。死んだ男の子の人格が生きている男の子に憑依する話、物語の筋としては他に説明の仕様がないし、無理に誇張する必要もない。だから電撃文庫がこのライトノベル(確かにライトノベルではあると思う)にイラストをつけずに出版したことは、宣伝のためとはいえ、じゅうぶんに意義のあることだ。むきだしのものをそのまま提示すること、それは理屈抜きに素晴らしいことなのだと断言したくなるのは、若さとか衝動への憧れでしかないかもしれないけれど。
思春期の少年少女が外側に開かれていないのは、内側に横溢する生々しい感情を抱えているからではなく、内側に何があるのか自分で覗けないことが不安だからで、内側に何も無いからだというのとあまり違わない。この本の登場人物たちはみな、他者について語るふりをして自己について語る。その自己というのも、つねに不安定でぐらぐら揺れている。中身がなくて他者を反射するだけの柊耕太は、その何もなさの極限として、また他の人物たちを写す鏡として登場する。そして彼はこの物語の中心でもある。
柊耕太は成長しない。物語のはじめと物語のおわりで、ほとんど変化しない。もっとも、冒頭も結末も彼自身が語り手だから、(特にこの小説では)彼の人柄については判断できないけれど。事件を通り抜けるあいだの揺らぎは、彼の中に何も残していかなかった。でも彼は、結末で「僕らは成長するし、思いは変質する」と語り、「そしてその瞬間だけは、言葉通り心から永遠を望む」とさえ言う。彼がこんなことを言うのは、彼が変わったからではなく、周りが変わったからだと思う。彼がこの瞬間を永遠にすることを望むのは、例えば舞城王太郎のような力強い今ここの現実の肯定ではなく、落ちてきた幸せを何気なく両手で受け止めてしまうような、ささやかな努力なのだと思う。


上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』は、章ごとに別々の人物の視点から叙述して、事件の全体像を徐々に明らかにするという手法が用いられている。今となっては一般的な技術だけれど、おそらくブギーポップ以前はミステリの叙述トリックなどの特別な場合だけに用いられる手法だったのだと思う。上遠野浩平新本格ミステリの感覚をミステリではない小説に持ち込んだことは、後の世代の人たちには想像できないほど大きな変化だったのだろう。その手法はいつの間にか広く浸透し、自明のものになった。
たとえば佐藤友哉の『エナメルを塗った魂の比重』もブギーポップの流れをくむ小説のひとつだ。数人の視点で断層的に起こる事件が叙述され、最後に彼らの世界は統合される。叙述トリックも登場するので、あくまでミステリの手法としてそのような語りが導入されたとも言えるが、その叙述トリックもミステリのパロディでしかないように思える。佐藤友哉ブギーポップを意識して『エナメルを塗った魂の比重』はわからないけれど、叙述トリックの感性をライトノベルに持ち込んだという点では、ブギーポップの系列に加えることができる。
では、ライトノベルに多視点の叙述を持ち込むことがどういう効果をもつのか。これは個人的な意見でしかないし、あまりに勉強不足で恥ずかしいのだけれど、今の時代にライトノベルで他者を描く方法がそれしかないからではないかなと思っている。バフチンは、ドストエフスキーの小説の登場人物たちの対話に、作者の思想を超えた人格と人格の対話(ポリフォニー)を見た。でも、そのような小説を書くのはあまりに難しい。誰もがドストエフスキーのように書けるわけではない。
しかし、ライトノベルの記号的なキャラクターと、多視点の叙述を用いれば、ポリフォニーを擬似的に書くことができる。矮小化されているけれど。そもそも他者という概念自体が失効していて、日常に見つけられるのはちょっとしたディスコミュニケーションやときどきあらわになる無理解だったりする。
そして、『僕らはどこにも開かない』は、そういう手法をうまく利用した小説のひとつだと思った。登場人物たちの壊れ方があまりに記号的でも、彼らのぶつかり合いは真剣だし、互いに影響を与えることはスリリングでときに危険を呼ぶ。彼らはどこにも開かないけれど、少しだけ疎通できるし、最後に柊耕太が望む永遠は彼ひとりのものではない。