『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット(安堂信也, 高橋康也訳)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

8/10読了。81冊目。
有名すぎるくらい有名な戯曲。二人の老人がゴドーを待ち続けるだけの二幕劇。
そもそも戯曲を読むことに慣れていなくて、軽いのか重いのか意味があるのかないのか判然としない会話を読み続ける経験じたいが不思議だ。いちおうの人物設定はあるけれど、無駄にテンポがよかったり、と思えば咬み合っていなかったりで、二人の人物の会話なのか作者の頭の中の言葉の応酬なのかわからなくなる。もし実際の演劇で見たのならそこに確かな身体性を見出すことができただろうし、二人の人物を分離することができただろう。でも、これはあくまで戯曲だ。そこに身体的な動作が但し書きされていても、言葉の出所が作者の中にあるような気がしてしまったりした。
二人の人物がゴドーという人物を待ち続ける不条理劇だという紹介を読んだことがあったから、きっと二人の人物だけしか登場しないのだろうと思っていたら、主人と奴隷の二人組が登場した。ポッツォとラッキー。主人と奴隷という関係だけで、彼らの存在が一種の風刺に見えてしまう。でもたぶん注釈にはそのような記述がなかったから、そういうわけではないと思う。むしろこの世界ではそういう類型的な意味は廃されている。
この戯曲は二部構成になっていて、第一部と第二部が対称をなすように構成されている。第一部から第二部までにどれだけの時間が経ったのか、一日だけなのかそれとも一年なのか、混乱させるような演出になっている。つまり、二人の老人はどれだけ長い間ゴドーを待ち続けているのだろうと問うことにほとんど意味はない。ただ待っている時間だけが宙吊りにされ、そこから抽出された二日間だけで永続性を暗示する。少し滑稽だけどループものという言い方をしてもあながち間違ってはいないと思う。当然脱出はないけれど。