『ゼロ年代の想像力』宇野常寛

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

5/22読了。今年53冊目。
2007年夏に『SFマガジン』で連載が始まり、2008年夏に連載が終わってその後書籍化されたもの。連載当初から核心を突いた東浩紀批判として話題になっていて、書籍化してからはさまざまな人に読まれてゼロ年代の批評シーンを革新した。
東浩紀周辺の批評の流れを追うためには必読だったのでぼくも読んだのだけど、いま思うとその読み方があまりに杜撰だった。ウェブ上の議論を理解するうえで必要になったところを書店で断片的に立ち読みしていき、最後にまだ読んでいなかった部分をさっと読むことで全部読んだような気になっていた。
一度通して読んでみたいとは前から思っていたので、時間が空いた土曜日に一気に読んだ。前半の東浩紀(とその周辺)批判としてゼロ年代サブカルチャーを分析したうえで、中盤以降に決断主義を乗り越える方法を模索しているという射程の長さがすごい。扱われている作品の数がとにかく膨大で、それによってゼロ年代の批評シーンがテレビドラマや少年マンガを無視してきたという批判が説得力をもつ。
そもそも「心理主義/ひきこもり」的な想像力は90年代の古い想像力であり、ゼロ年代は「決断主義バトルロワイアル」的な想像力が現れてきているというのが核となる主張だった。この主張は、宇野常寛の経歴によって強く裏打ちされているように思う。宇野常寛は第二次惑星開発委員会という批評ユニットを立ち上げて『PLANETS』という批評誌を制作し、東浩紀などの権力に頼ることなく『ゼロ年代の想像力』を書くところまで辿り着いた。この姿勢自体が「決断主義バトルロワイアル」的な世界観を連想させるもので、だからこそこの主張が強度を帯びるのではないかと感じた。
宇野常寛セカイ系批判は次のようなものだ。『AIR』などのように主人公が病弱な少女を所有することによって超越性を獲得する、そこで行われている自己批判は「安全に痛い」ものでしかなく、自己批判たりえない。これを初めて読んだとき、今まで自分が抱いていた違和感が払拭されて感動したのを覚えている。重要なのは、ここで批判されている「セカイ系」が狭義のセカイ系であることだ。もともとセカイ系という言葉は定義が定まらない半分バズワードのようなもので、それについては注釈のなかできっちり定義されている。少女を所有することで超越性を獲得するタイプのセカイ系(レイプ・ファンタジー)は批判されているが、自意識の問題を直接世界の問題に接続してしまうタイプのセカイ系は批判されていない。
決断主義バトルロワイアル」を克服する方法がいくつか挙げられているが、それはすべての方法ではない。その前提に立てば、東浩紀が『思想地図 vol.4』のトークイベントで言っていた「超大きな物語」としてのセカイ系という道は残されていると思う。他にも可能性はいくらでも残されているだろう。
ゼロ年代の想像力』の最終章は宇野常寛の人生論のようになって終わる。この人生論は「決断主義バトルロワイアル」的な殺伐とした社会を想定し、それに絡め取られないための道のひとつとして選び取られたのだからこそ、新たな批評を切り開けたのではないかと感じた。