『ポジティヴシンキングの末裔』木下古栗

ポジティヴシンキングの末裔 (想像力の文学)

ポジティヴシンキングの末裔 (想像力の文学)

5/15読了。今年52冊目。
木下古栗は1981年生まれ、第49回群像新人文学賞を受賞してデビューした作家。『群像』などに定期的に中編が掲載されるがそちらはいまだ書籍化されておらず、初作品集は〈想像力の文学〉からの短編集になった。
一編一編の長さは2ページから30ページくらい。各作品ナンセンスに満ち溢れていて、正直なところわけのわからない作品が多い。身も蓋もないほど即物的な性の扱いや、あまりに急な話の筋の断絶にはしばしば閉口する。しかしそれでも夢中になって読んでしまうのは、この小説を読む行為が不思議な快楽を伴なうからだ。『群像』2010年2月号に掲載された書評「ナッシングこそエブリシング」において、佐々木敦はその感覚を「まるで或る種のミニマル・ミュージックを強制的に聴かされているかのごとき退屈と興奮を同時に催させる、一風変わった『長編小説』を読んでいるみたい」だと表現している。
では、木下古栗の作風が端的に「新しい」のか「古い」のかというと、どちらかと言えば古い部類に入るのだと思う。この小説の「何もなさ」は、ポストモダン文学にはよく見られると想像できるし、唐突に行われる実験も奇抜なアイデアではなさそうだし、無機的な文体自体は(ぼくは個人的に個性的だと思うし気に入っているのだが)スタンダードの域を出ない。
ここでまた佐々木敦の書評から引用する。そこでは『ポジティヴシンキングの末裔』の特徴が次のように羅列されている。

唐突な始まり方、非情かつ直情的な、まるで獣か機械みたいな登場人物たち、体液のぬめりや肉感とは無縁の、すなわち徹底的にフェイクっぽい血と暴力とセックス、ただでさえ投げ遣りなストーリーの不意の中断と適当な逸脱、嫌がらせのような手抜きの言語実験、まったく生産的ではないしょうもない内的独白の多用、結末らしさも結語らしさも完璧なまでに欠いた唐突な終わり方、等々

そしてこれらの特徴は「中原昌也からの影響」だと書かれている。ぼくは中原昌也の著作には触れたことがない(音楽はちょっとだけ聴いたことがあるけど)ので、これについては何とも言えない。
ぼくはむしろ、『ポジティヴシンキングの末裔』を読んで他の作品を連想した。それは、一ヶ月前に読んだウラジーミル・ソローキンの『愛』という小説だ。おそらくこの組み合わせは少し突飛で、本来なら中原昌也を今からでも読んで比較してみるべきなのだろう。だが、『愛』を読んだときに戸惑ってしまったという個人的な体験があって、その戸惑いの意味を考えるうえで『ポジティヴシンキングの末裔』が処方箋として機能したため、この組み合わせで少し考えてみたい。
ぼくが『愛』に対して感じた違和感というのは、作者の狙った異化効果に見事にはまったのだと言えばそれまでだが、ソローキンが提示するナンセンスを完全に無意味だと思えなかったところにあると思う。そこに何か「芸術」的な感性があり、それが主張しすぎている気がして、ナンセンスを感じることができなかった(語弊を招きそうな表現だが、笑えなかった)。
それに対して、同じナンセンスを基調とした小説である『ポジティヴシンキングの末裔』は、読んでいるうちに何度も何度も笑うことができた。何の意味もない反復のあまりの馬鹿らしさに、中年男性の示す露骨な性欲の滑稽さに、読みながら何度も引き込まれ、そしてそのまま突き放された。
それは『愛』の方が表現がラディカルだったからだ、というのはおそらく正しい。『ポジティヴ・シンキングの末裔』を先に読んで、あとから『愛』を読んでいればもっとスムーズに戸惑わず読めただろう。それを認めたうえで、『愛』のわざとらしさはやはり欠点なのではないかと思う。その技巧的すぎる部分が薄められている方が、むしろ読者の受ける衝撃は大きいのではないか。何となくそういうふうに思った。
以下、雑記。
佐々木敦の書評がとてもよかったのでついたくさん引用してしまい、ぼくが自分の言葉で語ったと呼べる部分が少なくなってしまった。群像2月号の「夢枕に獏が……」はあまり楽しくなかった。
普段の感想と比べて、今回はとても力を入れて書いた。それには二つの理由がある。一つは、普段読む本に比べて『ポジティヴ・シンキングの末裔』は読む人が少なく、するとウェブ上のレビューも少なくなり、ぼくの感想が人の目に触れる確率も高くなるかもしれないと考えたから。もう一つは、昨日一日かけて『ゼロ年代の想像力』を通して読んで熱い批評に共鳴し、そのありあまった熱意が全然関係なさそうな木下古栗の感想に注がれた、という理由。『ゼロ年代の想像力』の感想はまた今度書きます。それまでこの熱意が持続することを願うけれど。