『天帝のつかわせる御矢』古野まほろ

天帝のつかわせる御矢 (講談社ノベルス)

天帝のつかわせる御矢 (講談社ノベルス)

4/30読了。今年47冊目。
天帝シリーズ2巻。『果実』の半年後の話。
1巻である『天帝のはしたなき果実』を読んでひどく感銘を受けたぼくは、『御矢』を読んで『果実』の世界が壊れてしまうことを恐れていた。それでも『御矢』を読んでみようと思えたのは、もしここで踏みとどまってしまったら『果実』の青春に憧れた自分を否定してしまうような気がしたからで、どういうことなのか自分でもよくわかっていない。
実際に『御矢』には『果実』ほどの感動を得られなかったのだけれど、覚悟していたというか諦めていた部分があるので、さほど落胆もしなかった。ぼく自身の個人的な体験としては『果実』が『御矢』の遙か上に位置づけられることは明らかだ。もっとも、それでも『御矢』はとても面白かったし、おそらく今年に入ってから読んだ推理小説ライトノベルのなかでは五指に入る。
読み終わった後しばらく経ち冷静になって、それでも『御矢』が『果実』に劣ると感じた点が二点ある。一つめは『果実』の始めから終わりまで一貫して漲っていた青春のオーラがほとんど失われてしまっていること。『果実』はさまざまな側面をもつ小説だった。ミステリ読みの人は本格探偵小説として読むだろうし、ラノベ読みの人は少し分厚い情報の過剰な異端のライトノベルとして読むだろう。でもぼくにとって『果実』はあくまで青春小説だった。無駄に知識の多い自意識過剰な高校生たちの個性が渦を巻いている小説だった。だから、舞台を高校から高級寝台列車に移して登場人物の平均年齢がぐっと上昇した『御矢』は、古野まほろ(作者)が青春の思い出の供養として書いたという『果実』の切迫感はほとんど失われてしまっている。
もう一つは、何となく表現が露骨になったように思えること。具体的な証拠を挙げられるわけではないけれど、『果実』にはあった複雑で元ネタ不明のレトリックが減って、代わりに古野まほろ(登場人物)の陶酔が増えているような気がする。これは比較して確かめたわけではないのであまり自信がない。
まるで『御矢』に否定的みたいな感想になってしまったけれど、それでも古野まほろはぼくが最も楽しめるエンターテイメント小説を書く作家であることは確かだし、やっぱり次巻以降も読むことになると思う。『果実』はひとつの理想型として自分のなかに刻み込んで、その先を見届けるような気分で続編を楽しみたいと思う。