『狭き門』アンドレ・ジイド

狭き門 (岩波文庫)

狭き門 (岩波文庫)

3/17読了。今年29冊目。
神(超越的なものなら何でもよいのだが)に正面から向かい合う作品はのめりこんで読めれば感動的だが、客観的に読むととても滑稽だったりする。例えば、小説の中で新興宗教の信者がどれだけ感動して涙を流しても、読者にとっては嘲笑ものであることが多い。だから、感情移入できるかどうかが作品の評価にもっとも如実に表れるのは宗教小説ではないかと思う。そしてぼくは、『狭き門』を読みながらくすくす笑ってしまった。
解説によるとこの作品はジイドの個人的な体験がおおいに反映されているらしい。だからこの作品を笑うことはジイドを笑うことであるような気がして申し訳ない気持ちになるのだけれど、その原因を探ることで解ることはある。
ぼくは並行して『白痴』を読んでいたのだけれど、愛ゆえに自分を遠ざけようとする女性が登場するという点で、この二作品は共通している。そして、ぼくは『白痴』の登場人物たちは生き生きして見えるが、『狭き門』の登場人物たちは滑稽に見える。では、その原因はいったい何なのか。
もちろん描写の違いなどもあるだろうが、最も大きいのは女性の振るまい方の違いだと思う。『狭き門』のアリスがあくまで真正面から主人公の気を逸らそうとするのに対して、『白痴』のナスターシャはいったい何を考えているのかほんとうにわけがわからない。主人公だけではなく周囲のありとあらゆる人たちを巻き込んでいく。もはや理屈が通っていない。そういうジレンマのようなものにぼくは惹かれているのだろうか、というのが現時点での仮説。