『ぷりるん。―特殊相対性幸福論序説』十文字青

ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~ (一迅社文庫)

ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~ (一迅社文庫)

12/22読了。今年130冊目。
普段利用している大型書店を2軒まわったけどどちらにも置いてなくて、Amazonで買おうかとも思ったけど図書カードはあるけど現金はないから無理で、しかたなく大阪のジュンク堂まで遠征してきた。マンガとライトノベルで埋め尽くされている1階は2階や3階に比べると棚が低くて見通しがよい。恥ずかしいから棚を高くして欲しい。人文コーナーくらい。大阪まで行ってなければどうしようと悩んでいたけどしっかり置いてあったので、そのままレジに運んだ。外が寒いから厚着して行ったら室内は暖房がきつくてすでに少し汗をかいていたうえ、恥ずかしさのあまり冷や汗もかいて何が原因で汗をかいているのかわからなくなった。ブックカバーをつけてもらって、袋に入れるのかと思っていると袋には入れず輪ゴムでパチンととめる。ライトノベルではこういう習慣なのか、それともエコなのか。
家に帰って帯を見ると、今年の7月発売だと書いてある。ということは、まだ半年も経っていないのにそれなりに大きい書店には残ってない。ライトノベルの回転の早さを思い知った。
好き好き大好き超愛してる」を読んだ後に、「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」へそのまま進む気になれず、『ぷりるん。』を読み始めて2時間くらいで一気に読んだ。動揺した。読みながらペットボトル一本の水を消費した。ライトノベルにしては珍しい性描写に動揺した、というわけではなく、自分が素直に感動している事実に動揺した。登場人物がみんな必死に辛いことや悲しいことを乗り越えていくのに感動して満足して終わり、となってしまいそうになる。それが決して悪い読み方ではないのだろうけど、自分はそういうことを放っておけない性格なんだと思っていたから、そこであっさり思考停止してしまう自分に驚いた。純文学では(いまひたすら読んでいる舞城王太郎を含めて)、そういうところで終わりになってしまわないように起承転結をわざと崩していると思う。主人公が成長しなければ、そのことが引っかかって思考をめぐらせることに繋がる。しかし、『ぷりるん。』の呼び起こす感動は、ごちゃごちゃと考えることを妨げるような感触があった。
それで結局、勝手な解釈を捏造して、肯定できないという結論に勝手に落ち着いたのだけどまだよくわからない。わかりあえないから身体的なコミュニケーション(セックス)に頼ろう、というのはぼくは嫌いで、この小説の中でももちろん否定されている。でも、わかりあえないけど言葉を交わすことは決して無駄じゃないよ、というのも嫌いで、『ぷりるん』はそこで止まってしまっているようにも読める。しかしそれは短絡的な読みだから、もうちょっと考えてみたい。