『定本 日本近代文学の起源』柄谷行人

定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)

定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)

10/28読了。今年109冊目。
ぼくらが「近代文学」という用語で指し示しているものはいったい何なのか。それはいったいいつ始まり、どこに起源を持つのか。その問いに答えようと思えば、言葉足らずではあるが、答えることができる。しかし、そのときに使うだろう用語ーー例えば「内面」や「風景」といったことばーーは、実は現代においては忘れられた転倒の産物だ。そして、「起源」というものを求める態度自体が、一つの形而上学的なものでしかない。そのような意味では、この「日本近代文学の起源」という題名自体が一つの転倒をはらんでいる。柄谷行人はこの著作において、明治二十年代の日本の文学の状況を分析しながら、近代文学について考えるうえで自明とされているような概念を疑い、それによって近代文学の先を見据え、新たな時代を予見したのだといえる。
柄谷行人を読もうとは思ったものの、多岐にわたる著作のいったいどこから手をつけるべきなのかわからず、けっきょく『日本近代文学の起源』を選んだ。特に理由はなく、何となく書店で立ち読みしておもしろそうだったからだというほかない。果たしてこの選択が正しかったのかどうかは他の著作を読み進むうえで明らかになるだろうから、あくまでこの著作だけに視点を絞って、いくつか感じたことを述べようと思う。
まず、約二ヶ月を費やしてゆっくりと読んでいったのだが、それは決して難解だったというわけではなく、この著作において採用された思考方法が極めて脱構築的だったからだ。日本の国語教育では、基本的に二項対立を作り出して文章を読み解くのが基本的な方法とされている。よって、ぼくにもそのような読み方が自然と身についている。しかし、そのような読みではこの著作の真意に近づくことができない。安易な二項対立に頼ることは、その問題からこぼれ落ちた事柄をまったく無視することになる、というのが根底に流れる方法だ。そのような考え方がもっともわかりやすく表現されていると感じた箇所を以下に引用する。

 ……何が「問題」だったのかと問うてはならない。「問題」は、つねに対立あるいは矛盾として構成される。だから、論争という形態こそが「問題」を在らしめている。論争(対立)として形成される「問題」は、何かを明るみに出すと同時に、何かを隠蔽している。(214ページ)

しかし、ことばにするのは容易だが、実践するとなると非常に難しい。ほんとうに難しい。気がつけば二項対立を持ち出してきてしまっている。常に意識し実践するのは体力を消耗し、読書ペースがだんだんと落ちてきた。しかし、ふと二項対立はひとが思考するうえで必ずつきまとうものであり、完全に解放されるのは不可能だと気づいた。そして開き直ってからは、かなり快調に読むことができた。
様々な思想家や作家が引用される中で興味が湧いた人物を挙げると、作家では志賀直哉、批評家ではバフチンだと思う。特に志賀直哉は思いも寄らない特色があり驚いた。ただ漠然と読んでいては決して気づかなかっただろう。いまは岩波文庫で買うか新潮文庫で買うかで悩んでいるところ。