『鏡姉妹の飛ぶ教室〈鏡家サーガ〉例外編』佐藤友哉

鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)

鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)

10/16読了。今年104冊目。

みんなで飛ぼう!!

2002年7月、『クリスマス・テロル』で「鏡家サーガはもう書けません」と宣言した佐藤友哉が、2003年1月から2004年1月までWeb連載した作品。講談社ノベルスとして出版されたのは2005年2月。『群像』や『新潮』といった文芸誌での執筆も始まり、佐藤友哉がジャンル意識について考えていた頃の作品であるため、かなりエンターテイメントを意識した内容になっている。だからといって佐藤友哉らしさが失われることもなく、「エンターテイメントらしいもの」で埋め尽くそうとする隙間から漏れ出る個性がやっぱりおもしろい。
まず空虚なグロテスクさ。物語の舞台となるのは地震によって液状化し地中に沈んだ中学校で、ほとんどの生徒は冒頭で既に死んでいる。彼らは作品を通して、教室や廊下に落ちている「もの」として扱われる。別に死ぬ前の姿が描かれていたわけでもないし、生臭い表現で描写されるわけでもないから、不快かというとそうでもない。しかし、あくまで「もともと人間だったもの」であり、現実の人間と接続して想像するしかないから、そこには空回りするぼんやりとした違和感だけが残る。
これまでの鏡家サーガとまったくことなるのは、扱われる思想がとても整理されている点だ。中心になっているのは、ダメな人は生まれつきダメなのか、それとも努力すれば何か変わるのか、というまるで少年ジャンプのような純粋なもの。それぞれのキャラクターが役割を負わされていて、物語を通して成長したり、思想を前向きなものに変化させたりする。いわゆる「壊れている」キャラ(修復不可能なキャラ)はシリーズの他作品にも登場する鏡家の姉妹と祁答院姉弟だけではないだろうか。だから、感動するようなシーンや熱くなるようなシーンもある。そういうのを読むと、佐藤友哉がんばってるなあと温かく見守るような気持ちになる。
しかし、完全なエンターテイメントのまま終わらせておけばよいのに、それだけでは終わらない。自分の作家としての不安を作品の中に書きたい作家はいくらでもいるだろうけど、実際に書いてしまう作家はほとんどいない。もちろんそれは倫理的な配慮なんだろうけど、逸脱がなければおもしろくないし、新しい世代の価値観を表現することができない。実際にそれをやってしまった『クリスマス・テロル』がおもしろかったからこそ、ぼくは佐藤友哉という書き手と講談社ノベルスを信用する。この作品も、別に蛇足と題された部分がなくても物語としては成立する。でも、作家の欲望を隠しきれないのが佐藤友哉の個性であり、そういったものが読者の期待を煽るのだと思う。
あいかわらず映画やアニメから引用されているけど、ほとんど知らないものばかりだった。映画からの引用が増えている気がしたけど、この時期の佐藤友哉は映画にはまっていたのかも。

「アンタはあの教室で、ちゃんと飛べたの?」(327ページ)