『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J・D・サリンジャー(村上春樹・訳)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

6/4読了。今年53冊目。
自意識過剰な男の子、ホールデン・コールフィールドが放校処分を受けて、ニューヨークの街をふらついたりする話。アメリカ文学の傑作。
ふり返ってみると数日間の出来事だけど、読んでいる間はめまぐるしく風景がやって来ては消え、人と出会っては別れ、とても濃い時間が流れていく。ホールデンは心の中ではずっと愚痴っているけど、知っている人に片っ端から電話をかけてみたり、バーで出会った女の子に声をかけてみたり、人と触れ合いたくてしかたがない。でも彼は面白いジョークも言えないし、人の気持ちを考えることも知らないから、けっきょくは拒絶されて、あるいは自分から拒絶して、救いは訪れない。

 さあいよいよここともお別れということになり、鞄やら何やらをそっくり持ったとき、僕はしばらく階段の降り口に立って、これが最後ということで廊下を見わたした。それで僕はなんだか泣いちまったんだよね。どうしてだろう。よくわからない。僕は赤いハンティング帽をかぶり、例によってひさしを後ろにまわした。それから声を限りに叫んだ。「ぐっすり眠れ、うすのろども!」。その階にいる全員がたぶん目を覚ましたはずだ。それから僕はさっさと出ていった。どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ。(92ページ)

ホールデンが深夜に学校を出て行くシーン。この泣いてしまう気持ちに少し共感した。別に悲しいとか悔しいとか、そういう感情で泣くのではない。きっと「学校を出て行く」という行動の青春っぽさ(物語性)に泣いたのだと思う。自分が今、現実を超えた一つのストーリーの一部となっていることへの感動。ぼくも何度か味わったことがあるような気がする。

 ……モーリスがドアを開け、すぐに僕の手の中の自動拳銃に目をとめ、「よせ、寄るな」と大声で叫ぶ。ものすごく甲高い、いかにも臆病者の声だ。でも僕はおかまいなくやつを撃つ。毛むくじゃらの太った腹に六発を撃ち込む。そしてエレベーター・シャフトに拳銃を捨てる。指紋なんかをすっかり拭き取ったあとでね。そのあと這うようにして部屋まで戻り、ジェーンに電話をかけ、部屋に呼び、腹に包帯を巻いてもらう。僕がだらだらと血を流しまくっているとなりで、彼女が僕のために火のついた煙草を持っていてくれるところを思い描く。
 こういうのもみんなくだらない映画のせいだ。映画って人を駄目にしちゃうんだよ。ほんとの話さ。(177ページ)

ホールデンは名作文学や映画を馬鹿にしている。何かそれっぽいことが起こるたびに、映画や名作文学をひきあいに出してきて悪態をつく。でもこのときはひどくやりこめられて、ついついそういった映画らしい世界観に頼ってしまう。妄想で自分を慰める。でも落ち着いてくると、また映画のせいにして「人を駄目にする」とか言う。どうしても辛いときには自分のポリシーを曲げてしまうものだと思う。でも、そのあとすぐに正気に戻って否定し直すことがぼくもよくある。

「君はいつが男子校に行ってみるべきだよ。まったくの話さ」と僕は言った。「なにしろインチキ野郎の巣窟みたいなところでさ、そこでみんながやっていることといえば、いつの日にかろくでもないキャデラックを買えるくらいの切れ者になるべく、せっせと勉学に励むことだけ。そしてもし我が校がフットボールの試合に負けたら、それこそ天下の一大事みたいに思い込まなくちゃならないわけだよ。やることといえば女の子と酒とセックスの話、それだけ。一日中その話だ。そして誰も彼もが、ちっぽけで陰険な派閥みたいなのを作って、身内でかたまりあっている。……(221-222ページ)

スケートリンクのテーブルでデートの最中、ホールデンが女の子に言ったセリフ。まさにその通りだと思う。ぼくもたくさんの冴えない平凡な男子高校生と違わず、そう思っている。どうしてあんなに勉強しなきゃ勉強しなきゃって言うのだろう。同じような退屈な毎日を繰り返して、その退屈さを神聖なもののようにあがめているのだろう。

「くだらん」と彼は言った。「相も変わらずのコールフィールドだ。いったいいつになったら大人になるんだ?」(243ページ)

「彼はこう記している。「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』」(319ページ)

けっきょくのところ、この作品を通底するテーマは「成熟」だと思う。この数日間の間に、ホールデンは会う人みんなに「大人になれよ」とか、それを仄めかすようなことを言われる。でもホールデンはそれを全部はねとばして、「ライ麦畑のキャッチャー(The Catcher in the Rye)になりたい」という。これに関してぼくが思ったのは、ホールデンは大人に引っぱり上げられるような成熟のかたちを嫌っているのではないだろうか、ということ。つまり、ホールデンは「大人のため」ではなく「自分より小さな(ライ麦畑の崖から落ちてしまいそうな)子どものため」に成熟したい、と言っているのではないだろうか。だから、ホールデンが最も愛するのはあくまで妹のフィービーと、死んでしまった弟のアニーだ。それに、エンディングでホールデンを引き留めるのもフィニー。あくまで「子どものための成熟」を探し求めるホールデンの姿は潔くて清々しいし、それだけでもこの本を読む価値は十分にあると思う。