『日蝕』平野啓一郎

日蝕 (新潮文庫)

日蝕 (新潮文庫)

現代が喪失した「聖性」に文学はどこまで肉薄できるのか。舞台は異端信仰の嵐が吹き荒れる十五世紀末フランス。賢者の石の創生を目指す錬金術師との出会いが、神学僧を異界に導く。洞窟に潜む両性具有者、魔女焚刑の只中に生じた秘蹟、めくるめく霊肉一致の瞬間。華麗な文体と壮大な文学的探求で「三島由紀夫の再来」と評され、芥川賞を史上最年少で獲得した記念碑的デビュー作品。

10/22読了。今年84冊目。
この作品のネット上での評価は、とてつもなく低い。アマゾンのレビューを見てもそうだし、2ちゃんねるを見ても、褒めている人が恥ずかしいくらいに、多くの人にけなされている。そのうえパクリ疑惑まである。しかしこの作品は芥川賞を受賞している。世間ではいかにも評価されているような雰囲気を醸し出しているが、はたして実際のところどうなのか。
まずざっと読んでみて(あまり丁寧には読んでいない)、確かにこの文章に文学性があるのかといえば、ぼくのような人間が判断するには曖昧で、結局何もわからずに終わってしまうのかと思っていた。しかし四方田犬彦の解説によって、ぼくは答えの一つを見つけ出すことができた。この解説はわかりやすくこの本の魅力を伝えているし、何より面白い。四方田犬彦は、この本は「通過儀礼」であるという。そして、使い古されたテーマである「通過儀礼」の物語を書くことは、すなわち過去の反復である。そういって彼はこの物語に引用されているであろう様々な文学小説を挙げている。そして、この反復は初期衝動であり、この作品はまさにその初期衝動がそのまま物語になったものだ、といってこの作品を肯定し、解説を終わっている。
どこかで聞いたことがある。イニシエーション、引用によって成り立つ作品。これはまさにエヴァンゲリオンではないか。そういえば大塚英志が「『日蝕』はエヴァだ」と言っていたような気がする。つまり、文学小説としてこの作品を評価することはぼくにはできないが、エヴァンゲリオンのように、つまりサブカルチャー的に分析することによって、この作品を、あるいは平野啓一郎を考えることができるのではないか。
続きはもっと勉強してから書きます。