『城』フランツ・カフカ(池内紀訳)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

熱が出た。38度。少し喉が痛い以外は特に症状もなかったので風邪薬を飲む気になれず、部屋で一日中ふとんに入ったまますごした。天井を見たり壁を見たり本を読んだりして過ぎゆく時間を受け流していた。浅い眠りと曖昧な覚醒を交互に繰り返しているうちに、起きているときに考えていたことがそのまま夢の世界に繋がるようになった。強迫されたかのようにある一つの尺度について悩んでいたような記憶があるけれど、いったい何を評価するための尺度だったのか今はもう覚えていない。その熱も夜には下がり、次の日からは元の慌ただしい生活に戻った。
カフカの小説はいろいろなものに喩えられる。また、それと同時にさまざまな現象が「カフカ的」と形容される。これはカフカの小説が唯一無二であることの証左なのだけれど、それはともかく、熱があるときに見る夢がカフカの小説に似ている、というのは確かにそうだと思った。思考を方向づける基盤のようなものが失われてしまい、本来の目的とは関係のないことについて執拗に考えてしまう。はじめは城に辿り着くことが目的だったKは、城に入るためにはクラムに会う必要があることを知り、クラムの元愛人のフリーダと出会ってからは何とか彼女と生活しようと努力し、城に行くという目標は徐々にねじ曲げられていってしまう。
『城』という小説は、一つ一つの要素を意味づけて読んでも、小説の表面をさらうだけで終わってしまう気がする。例えば、城というのは何かのメタファーであり、それぞれの人物はどういった思想に対応づけられ、というふうな読み方は、カフカのたたみかけるような語りの勢いを矮小化することになってしまう。ではどう読むのが相応しいのか。過去にも引用したドゥルーズの言葉をもう一度引用してみる。

もうひとつの読み方では、本を小型の非意味形成機械と考える。そこで問題になるのは「これは機械だろうか。機械ならどんなふうに機能するのだろうか」と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、もし何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。こうした異種の読書法は強度による読み方だ。つまり何かが伝わるか、伝わらないかということが問題になる。説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、21ページ)

『城』を強度をもった文字の連なりとみなして、何かが伝わってくることだけを期待して読む。それは理想化された読書法にすぎないかもしれないが、そこには小説の読み方の一つの極限が示されている。そしてカフカの小説は、その読み方にぴったりと適応している。
13歳のときに読んだ村上春樹海辺のカフカ』のことを考える。誰の台詞だったかすら忘れてしまったけれど、物語の重要な部分で、誰かが「世界はメタファーだ、田村カフカくん」と言い放つシーンがあった。タイトルにカフカという名前を含んでいるとおり、『海辺のカフカ』は『城』と同様に安易な解釈を拒んでいると感じた覚えがある。エディプス・コンプレックスの構造をあからさまに採用しながらも、細部に散りばめられた不自然な謎が、単純な構図に回収することを許さなかった。あの小説を初めて読んだとき、これはいったい何なのだろうという居心地の悪さをずっと感じていた。ミステリ小説のように提示された謎が解決されないまま終わってしまったとき、2冊の新潮文庫がいびつな塊のように見えた。
では、「世界はメタファーだ」という台詞はどういう意味なのか。『海辺のカフカ』はメタファーであることを拒んでいるように見える。その台詞がどういう文脈で発されたのか忘れてしまったのではっきりしたことは言えないけれど、おそらく村上春樹のメタファーは、純度が増すにつれて対応物を失い、意味をもたない機械になるのではないだろうか。だから世界はメタファーであると同時に、何も表現しない装置にもなりうる。カフカの小説も、その寓話性に反して、教訓や風刺は表現せず、Kの脈絡を失った体験がただ並べられている。メタファーは極限において意味のない強度となる。ここまで考えてひとまず納得する。しかしこれも、『城』の都合のよい解釈のひとつにすぎないのだった。