『ニッポンの思想』佐々木敦

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

6/16読了。今年63冊目。
ポストロックが好きだった中学3年生のぼくは、インターネットよりもライナーノーツに頼って次に聴くCDを選んでいたように思う。もしかすると、当時のぼくが一番熱心に読んでいた文章はライナーノーツかもしれない。初めて触れた佐々木敦の文章もライナーノーツだった。ぼくにとっての佐々木敦は「ポストロックのライナーノーツをたくさん書いている人」だし、演劇や文学や思想などの広義の批評をする佐々木敦に出会うたび、いまだに少し驚く。
『ニッポンの思想』が発売されたとき、佐々木敦が思想の解説書を書いたことを意外に感じながらも、
期待をこめて、書店で前半を立ち読みした。柄谷行人蓮實重彦の章まで読んだと思う。でも、なんとなく気に入らなくて、読むのをやめてしまった。
それから一年弱が経過して、落ち着いて最初から読み直すことにした。80年代以降の日本の思想シーンのまとめとして質が高いかどうか、ぼくには判断できない。これから浅田彰中沢新一を読む導入として、うまく利用したい。
まえがきにおいて佐々木敦は、ひとりの読者として「ニッポンの思想」をまとめると宣言している。つまり、現時点で佐々木敦は「ニッポンの思想」のプレイヤーではない。そのまとめ方は、各プレイヤー(思想家)のパフォーマティヴな側面に注目して思想シーンの空気を切り取る、というものだ。そして、ゼロ年代をひとり勝ちした東浩紀を、コンスタティヴに語りながらパフォーマティヴな効果を意識している、として評価する。
そのようなことを記述しながら、しかし、なぜ佐々木敦はこのような語り口を選択したのだろう。何の知識をもたない人のための入門書に徹するのでないなら、『ニッポンの思想』を書くことはパフォーマティヴな効果を持ってしまうはずだ。その効果に自覚的であることを示して欲しかった。「ならば、あなたがやればいい」とはそういう意味だったのではないか。
去年のぼくがいらだちを覚えたのは、そういうところに原因があったのだと思う。