『天帝のはしたなき果実』古野まほろ

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

2/21読了。今年19冊目。
そもそもぼくが定期的に本を読み始めたのは、13歳のときに森博嗣清涼院流水舞城王太郎と出会ったからで、メフィスト賞の受賞作たちはそれぞれ独特で破天荒でありながらも、何かを共有しているような気がして、だからいまでもメフィスト賞と聞いただけで無意識に反応して、期待と哀愁が入り交じったような気持ちになる。ぼくはもはや自分をミステリ読みとして意識していないし、実際にミステリよりは純文学やSFの方が読む冊数が多いかもしれない。『天帝のはしたなき果実』は、最近の受賞作の中ではもっともメフィスト賞らしいという評判で、賛否両論どころか、手放しに賞賛されているのは見たことがなく、だいたいの人は冷静に切り捨てるか条件付きで褒めるかのどちらかだった。この表現は好きでないのだけれど、つまりは「人を選ぶ」タイプの小説で、だからこそ読んでしまったらもうメフィスト賞は残っていないという不安があった。
しかし、読み始めてみると不安は消え去り、世界観にのめりこんでしまって、先週の週末はずっとこの本に向き合っていた。おそらくトリガーとなったのは、「衒学高校生の青春小説」という部分だったのだと思う。『サマー/タイム/トラベラー』を読んだときにも思ったのだけれど、とにかくぼくはハイカルチャーサブカルチャーのムダな知識を詰め込んだ高校生たちの青春に憧れていて、自意識過剰な高校生たちが一つの空間に集まって、それぞれが自分の得意分野を生かして議論まがいのおしゃべりをしていれば、それだけで大いに満足できる。ルビを過剰にふった文章や奇怪な擬音語もこの世界観作りに一役買っていて、その装飾過多な文面は眺めているだけでも楽しい。少なくとも読みにくくはないし、装飾を取り去ってしまえば、実はシンプルでライトノベル的な読みやすい文章になるはずで、そこで躓いている人は真面目に読み過ぎてもったいないことをしていると思う。
作者は作品の随所で、「黒い水脈」などの探偵小説へのオマージュを行っているが、『果実』が純粋な探偵小説であるかというと、決してそんなことはない。探偵小説パートは、この小説の構造において枝葉の部分であり、SF設定が探偵小説を包含し、さらに青春小説が全体の基底にある。もし探偵小説を真っ正面から提示されたら、正直にミステリを読めないぼくは、まったく楽しめなかっただろう。逆に、まるで装飾品のように構成されることで、探偵小説パートは魅力的になっているのだと思う。必要なのは緻密な論理だけではなく、その背後の過剰な自意識や空虚な青春なのだとよく判る。
最後に、小説の外側で気になることをいくつか。まず、作者の生年。プロフィール欄には、「酉年」とだけ書いてあるが、冷静に考えれば1969年生まれ。もっと細かい経歴を見てみたいと思うけれど、あまり露出の多い作家ではないだろうから、おそらく公開されることはないだろう。それと、巻末の参考文献リスト。いったいどういう意図で付けられたものなのか。とにかく雑多で、図解雑学なんかが混ざっていて、わざと専門分野をぼかしたのかなー、と邪推。
ウェブ上の書評をいくつか読んでいると、次巻以降は「普通におもしろい」らしく、『果実』がぴったりはまったぼくに果たして楽しめるのか心配で、また、あらすじを読むと、青春小説の要素が薄れるような予感がするし、何より長いから読むのに時間がかかるが、それでも読む。『果実』の興奮が、失敗を犯す勇気を与えてくれるに違いない。