『涼宮ハルヒの消失』

たぶんネタバレがあります。

10日。梅田にて。
ぼくは涼宮ハルヒの物語にも、キャラクターたちにも、まったく思い入れがない。ぼくの同級生でアニメが好きな人たちは、マニアックな作品が好きな人を除けば、だいたいの人が涼宮ハルヒに何らかの思い入れがあるのではないか、と思う。では、ぼくは例外なのかというと、そういうわけではない。ぼくはオタクにはなれない。アニメ愛好者でもない。
まず、『涼宮ハルヒの消失』は何に関する物語なのか、と考えるところから始まる。SOS団についての物語なのか、それとも、長門についての物語なのか。あるいは、キョンは何を選択したのか。改変後の世界か改変前の世界かの選択したのか。改変前の長門か改変後の長門かの選択をしたのか。さらには、選択の機会が分裂する。キョンが選択をしたのはエンターキーを押した瞬間が、それとも銃の引き金を引こうとした瞬間か。世界改変とタイムトラベルが絡み合い、エヴァンゲリオンを連想させる自問自答のシーンを不自然に挿入することで、これらの問いは攪乱される。
ということを一緒に見た友達と話した。以下は、個人的な話。
涼宮ハルヒの消失』はキョンの選択についての物語ではない。「選択すること」に関する物語だ。思春期における選択は、不確定の未来の自分との葛藤として起こる。1年後や10年後にこの選択を肯定できるかどうか、今の自分にはまったく予想できない。中学生の時はこういう問題に日々頭を悩ませていたりするのだが、高校生になってくると、だいたい大人になった自分がどういうふうに考えるのか予測できるようになってくるし、最大公約数的にちょうどよい妥当な選択肢が判るようになってくる。だが、それがそのまま大人になる瞬間というわけではない。まだ終わらない。どの選択肢が将来的に正しくて、どの選択肢が将来的に正しくないのか、きっちり把握した上で、あえて間違った選択肢を選ぶことができる。スーパーカーの「Easy Way Out」という曲で、「正しいを前にまちがいをわかって選ぶのさ」という歌詞がある。まさにそういう感覚。もうひとつ、あえて選択を保留するという選択肢もある。まさに青年期を「モラトリアム」と呼んだりするけれど、あらゆる物事を保留できるのは高校生の特権だ。で、ぼくが『涼宮ハルヒの消失』について何を言いたいのかというと、キョンはあえてまちがいを選ぶことと保留することはしたけれど、最後まで妥当な選択肢は選ばなかった。
正直映画の話はほとんど関係がない。自分の中でもうちょっとまとまるのを待つ。