『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』村上春樹

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

1/10読了。今年5冊目。
ねじまき鳥クロニクル』の第1、2部と第3部との間には大きな断絶がある。第1部と2部は「僕」が世界に参加することを決意するまでの物語で、第3部は「僕」が世界にどうはたらきかけるかの物語だ。この区切れめにおいて、登場人物もがらっと変わるし、「僕」の心情もまったく違うものになる。断絶を象徴するのは、たとえば金属バットというアイテムだ。金属バットは決して、「村上春樹」的なアイテムだとは言えない。村上春樹が金属バットを持ち出すほど、95年という時代は殺伐としていたのだと思う。90年代後半には、阿部和重も金属バットで人をボコボコにする小説を書いていて、阿部和重が表現しようとした当時の現代性を村上春樹も表現していたのだと言うことができる。村上春樹の95年における転回は、『ねじまき鳥クロニクル』だけでなく、『アンダーグラウンド』や『神の子どもたちはみな踊る』にも表れている。ぜひ村上春樹という作家自身が社会にコミットした結果である、『アンダーグラウンド』も読んでみたいと思った。
ねじまき鳥クロニクル』は、村上春樹という作家にとって重要であるだけでなく、1995年という時代を象徴する小説としても重要だし、作家と時代から切り離してひとつの小説として見た場合にもたくさんのイメージやガジェットやメタファーに満ちていてすごい小説だと思った。『思想地図vol.4』の座談会で絶賛されているのも頷ける。無意識がどういったものなのかを外側から描いたのが『神の子どもたちはみな踊る』だとするならば、無意識を精神分析的に内側から描いたのが『ねじまき鳥クロニクル』だと感じた。『ねじまき鳥クロニクル』はそれくらい頻繁に、夢の中の話のようなイメージが用いられている。それと同時に現実における綿谷ノボルとの対立があり、多彩な女性たちとの交流があり、それらがひとつの大きなまとまりをなしている。綿谷ノボルに象徴される悪意が、はたして絶対的なものなのか、オウム真理教の想像力と接点はあるのか、という問いを、小説を読み終わったあとのぼくは背負うべきだと思った。