『インディヴィジュアル・プロジェクション』阿部和重

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

11/3読了。今年112冊目。
阿部和重の代表作とされる作品。この小説が阿部和重をメジャーな存在にした、と東浩紀が解説で書いている。理由は明白で、文章が前作までに比べると、それはもう一目瞭然なほどに読みやすくてシンプルになっている。これまでの衒学的でやけにもったいぶった語り口の面影はない。ぼくは阿部和重の小説の感想を書くときはいつも、その語りが好きなんだと書いてきた。それでは、ぼくは『IP』を楽しめないのだろうか。少なくとも、いままでの小説と同じように楽しむことは不可能だろうか。解説を先に覗いたせいで、そんな懸念を抱きながら読み始めることになった。
『IP』はある男の日記だ。日記とはいえ、日々の生活がたんたんと語られるだけではなく過去のことを丁寧に綴ってもいるから、手記のようでもある。彼は映画館で働いていて、過去にはスパイのトレーニングに参加していた。その前は映画学校に通っていた。危ないことに関わっていたことを明かすくだりはスパイ小説を読むようで(スパイ小説なんて読んだことないけど)、素直におもしろかった。しかし、これは阿部和重の渾身の小説なんだ。こんなものではないはず。そう思って読み進めると、終盤で急速にぼくの望んでいたようなメタフィクション的な仕掛けがでてきて、ついに来たか、今回はいったいどんなおもしろいことをやってくれるのだろう、と集中する。無理に感動しようとしていた気がする。つまり、期待が膨らみすぎていた。小説を読むのではなく、自分の望んでいる展開を探そうと躍起になっていた。読み終わったとき、自分の欲望が空回りしてしまったような、不思議な読後感があった。
『IP』は、ぼくがいままででもっとも大きな期待を抱いて読んだ小説だったのだと思う。自分の欲望の満たそうというような傲慢さが、自分でも感じられた。期待すること自体が悪いわけではない。しかし、期待することによって読み方ががつがつした感じになって、小説に正面から向き合えない。けっしておもしろくなかったわけではない。じゅうぶんおもしろかった。東浩紀の解説もとても秀逸で、おもしろい読み方を提示するだけではなく、『IP』の本質に迫るようなものだった。でも、読んでいる間、重心がこの小説ではなく自分の中に残っているような感覚がして、小説を読んでいる感じがしなかった。
もったいないことをした、とはいわない。そんなことをいってしまったら、また同じ過ちを繰り返すのは明らかだからだ。例えば、『九十九十九』の再読はそういう不安が大きい。中一の時の感動が増幅されていて、きっとその感動を再び味わうことを期待しているから。もっとも、どうすれば過剰な期待を防げるのか、まったく見当がつかないけど。とりあえず、これからの自分への教訓として。