『フラニーとゾーイー』J・D・サリンジャー(訳:野崎孝)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

1/7読了。今年4冊目。
サリンジャーのグラースサーガはフォークナーのヨクナパトーファ・サーガとは対称的に、作家が提示している情報が極めて少ない。サリンジャーが作品の発表をやめた理由はきっと永遠に謎のままだろうから、まだ描かれず残っている部分は読者が想像で補うしかない。グラース・サーガの設定を断片的に登場させることで、短編ごとの閉じた世界に大きな背景を接続したのが『ナイン・ストーリーズ』のグラース・サーガに属する短編たちならば、グラース・サーガの大きな背景に意識的に書かれることで登場人物の狭い自意識の世界を際だたせたのが『フラニーとゾーイー』だと言える。たぶん。『フラニーとゾーイー』にはグラース家の構成員の説明があり、グラース兄弟の実家が舞台であることから、グラース・サーガであることを強くしているのは明らかで、何も知らずに読めばシーモアとブーブーが兄妹であることにも気づかず通り過ぎてしまいそうな『ナイン・ストーリーズ』とはまったく違う。
冒頭から登場するレーン・クーテルは、とても印象深い人物だった。どこか壊れているグラース家の人物に較べれば極めて類型的で、とくに変わっているということはないが、彼は絵に描いたようなスノッブで、感情移入せざるをえない。ぼくは自分がスノッブであることを認めたくはないが、自分の好きなことをしゃべり始めると止まらなかったり、自覚しているのにプライドを隠せなかったり、うまく他人を気遣えなかったり、まるで自分を見ているようなもどかしさがあった。フラニーやゾーイーのような特異な感性はなく、凡庸な自分を擁護しなければ恥ずかしくて目も合わせられない。
ラニーはレーンを含めた大学のスノッブたちに耐えられなくなり、実家に帰ってリビングのソファから動かなくなる。俳優として活躍しているゾーイーは、フラニーを励ますよう母親に説得される。そして、ゾーイーはフラニーと話すのだけど、励ましからは程遠い。グラース家で交わされるこれらの会話は、ほんとうに素晴らしい。サリンジャーにしか書けないディスコミュニケーションと自意識過剰に埋め尽くされた会話。そこでイエスの話をしても、東洋思想の話をしても、やはりそこにはサリンジャーの個性が宿る。