『クォンタム・ファミリーズ』東浩紀

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

6/2読了。今年57冊目。
第23回三島由紀夫賞受賞作。
いまさら説明するまでもないが、東浩紀が単独で書いた初めての小説であり、発売直後からTwitter上を中心にさまざまな場所で絶賛され、さらには三島賞を受賞した傑作。批評家が小説を書いて文学賞を受賞したことは、文学史上における事件になりうるくらいに画期的なことらしい。QFによって文壇は塗り替えられるのでは、という声も耳にする。このような事件を起こせたのは、ゼロ年代を勝ち抜いてきた東浩紀だからこそできたことだ。それについてはぼくも純粋に嬉しいし、これから文学シーンがどのように変革されるのか、とても楽しみだ。
QFがパフォーマティヴに引き起こした影響は脇に措くとして、一冊の小説としてのQFを、一読者としてのぼくがどう読んだのか、考えてみる。
まず、なぜ今の時期になって読んだのか。発売されたのは昨年の年末、まさにゼロ年代が終わろうとしているときだった。さきほども書いたように発売直後からTwitter上では高く評価されていたので、興味はあったのだけれど、ちょうどそのときぼくは東浩紀のデビュー作『存在論的、郵便的』と格闘していた。そして、QFのレビューのなかには、「東浩紀という思想家/批評家をまったく知らない状態で、この小説を読んでみたかった。この小説で東浩紀を知る若い世代が羨ましい」というようなことが書かれているものが多かった。もしかすると、いまのぼくはQFを読むのにもっとも相応しくない状態かもしれない、と冬休みのぼくは思った。そこで、しばらく東浩紀から離れてできるだけまっさらな状態でQFを読もうとしたけれど、残念ながらTwitterでもはてなでも東浩紀に関する情報と頻繁に遭遇し、諦めかけていた。ぼんやりしていると、QFは三島賞にノミネートされ、あっという間に受賞してしまった。図書館の予約が埋まる前に急いで借りようと思って、受賞の翌日に図書館に行って借りた。
量子論的可能世界、村上春樹、35歳問題、家族、ショッピングモール、アリゾナの砂漠、その他にも膨大なテーマがひとつの物語に凝縮され、一冊の小説として結実している。プロの小説家でない東浩紀がこれだけ質の高い小説を書けたことには、ただもう驚くばかりだし、東浩紀の多方面にわたる能力を見せつけられたような感じがした。小説を構築する能力がすさまじく、すべてのモチーフは適切に配置され、数々の事件がテンポよく起こる。文章がとてもうまくて、楽しく読み進められた。
しかし、何かが足りない、と感じた。小説が不可避に引き起こす磁場のようなもの、小説が自分の人生に働きかけるゆらぎのようなものが足りない、と感じた。海外長編文学を読んだときに感じるような、雑多なものの氾濫が複雑なプロットに乗って一体となり、強靱な世界観となって迫ってくるような感覚をぼくは求めていたが、QFはそれに応えてはくれなかった。おそらく、QFは整理され過ぎていたのだと思う。ぼくは小説にすべてを巻き込んで融解させるような作用を求めているのに、完璧に構成されてしまったQFはそれに応えてはくれなかった。
でも、少し考えて、ぼくの不満がまったく見当外れであることに気づいた。
そもそもQFは、小説を書くことについての小説だ。小説を書くことは、ありえたかもしれないもう一つの生を夢想することであり、もう一人の自分を探し求めることだ。だから、並行世界をテーマにすることは、必然的に小説を書くことについて思索することに繋がる。東浩紀が小説第一作の舞台に並行世界を選んだのは、小説を書くとはどういうことか、示しておきたかったからだと思う。
それと同時に、これは文壇を埋め尽くす私小説自然主義的リアリズム)への批判でもある(このテーマは『ゲーム的リアリズムの誕生』や『キャラクターズ』から引き継がれている)。QFは、東浩紀の個人的な視点から書かれたように見せかけられているという点では私小説だが、私小説が書かれる構造自体が小説のなかに取り入れられている点では、従来の私小説とはちがうものだ。だから、QFを読むことで新しいリアリズムが読者ひとりひとりのなかに生まれるべきだ。でも、ぼくは古いリアリズムに基づいてQFを読んでしまった。新しいリアリズムを発見することができなかった。
こうやって感想を書いてみると、やっぱり小説家・東浩紀から批評家・東浩紀を切り離すことはできなかったことがわかる。それは仕方のないことだし、後悔もしていない。少なくともぼくは、批評家としての東浩紀を知らない状態でQFを読みたかったとは思っていない。また十年、二十年が経ったとき、ゼロ年代の批評の文脈から離れてQFを読むことができるのだろう。そのときが来るを楽しみにしたい。いまとはまったくちがった小説としてQFが現れてくるはずだ。