『容疑者の夜行列車』多和田葉子

容疑者の夜行列車

容疑者の夜行列車

目次に並ぶのは知らない地名ばかりだ。夜行列車の窓の外は暗い。それは当たり前のことに思えるけれど、高速道路を走る車の外は規則的に並ぶ道路灯に照らされていたはずだ。真っ暗な空間の中を貫いて移動することは、実はそれほどありふれたことではない。九月の夜の列車に乗って山形県を走り抜けたとき、窓は外から黒い覆いをかけたように黒く、終わらないトンネルの中にいるみたいだった。車両はただの箱で、がたがた揺れているだけで、でも時間が経てば目的地に辿り着くはずで、安心と不安のあいだで宙づりにされていた。
ヨーロッパには地面に国境が刻まれている。夜行列車に乗ったまま国境を越えることができる。列車から降りると人々の話す言葉が変わっている、という経験は日本ではほとんど不可能だろう。言葉が通じない、文化も違う、不自由な都市で泳いでいると人に話しかけられる。この人は声をかけやすい空気をまとっているのかな、と思う。そういう種類の人はどんな街にでも見つけることができる。
この小説は二人称で綴られる。書物があって、開くと「きみ」と書いてある。そのとき「きみ」が指し示すのはその文字を読んだあなた自身だ。たぶんこの小説で旅をしている人物は、女性で、ダンサーで、舞台のために旅をしている。でも残念ながら読者は(おそらく)そうでない。読者は男性かも知れないし女性かも知れない、ダンサーであることは稀だろう。にもかかわらず書物は読者を指し示し続けるから、夜行列車と日本の狭い家屋のずれは小説世界をじわじわと浸食していく。
一つの章は、シベリア鉄道から落ちる夢を見る話だ。トイレに行こうとしてドアを開けると雪に落ちる。凍えながら彷徨い、何とか村を見つける。家の扉を叩き、事情を話し、泊めてもらうことになる。小さな浴槽につかったとき、両性具有の幻覚に眩暈がする。「きみ」は複数の読者であり、男性でもあれば女性でもある。「きみ」という言葉がすべてのありうる読者の可能性に息切れを起こし、男性と女性の狭間で描写が混ざり合う。
「きみ」が読者なら、「わたし」は誰なのだろう。なぜ「きみ」と呼びかけるのだろう。合理的な解決を与えることは野暮だと信じこんでいたかもしれない。だから、この小説に解決編があると知ったとき、少し意外に思った。でも、この解決編で明らかにされる事実は、何も解決しない。何も解決しないまま余韻が置き去りにされる。手品の種明かしもまた手品だったみたいに。
そういえば「わたし」という言葉は、正しくそして傲慢な名探偵の特権だった。すべてを白日の下に晒そうと半ば暴力的に正義をなす彼らは、この小説には登場しない。そのような意志から離れた場所にある物語が、ここには黙々と書き連ねられている。

その日、わたしはあなたに永遠の乗車券を贈り、その代わり、自分を自分と思うふてぶさしさを買いとって、「わたし」となった。あなたはもう、自らを「わたし」と呼ぶことはなくなり、いつも、「あなた」である。その日以来、あなたは、描かれる対象として、二人称で列車に乗り続けるしかなくなってしまった。

本棚を組み立てる話

宅配業者に時間指定をするのを忘れてしまったから、一日中部屋で待っていなければならなかった。いつインターホンが鳴るのか気が気でならなかった。昼食に使った食器を洗っているときにインターホンの音が聞こえた気がして受話器をあげてみたけれど、誰の声も聞こえず、玄関の扉を開けても誰の姿も見えなかった。窓から外を眺めるとよい天気で、図書館で借りたい本もあったし、散歩もしたかった。こんなことなら時間指定をしておけばよかったと思った。でも、本棚が届くのが待ち遠しかったのかもしれない。そういうふうにも見える。
空耳ではなくインターホンが鳴ったのは日が暮れてからだった。そろそろスパゲッティでも茹でようかと考えていたところだった。本棚は段ボール箱に入って届けられた。佐川急便の若い男の人は爽やかな笑顔で玄関まで運び入れてくれた。佐川急便が去ると、玄関に段ボール箱とともに取り残された。重くて細長い段ボール箱を、休み休み持ち上げながら、なんとか部屋のなかほどに移した。もう夜になってしまったし、眠いし、組み立てるのは翌日にしてもよかったけれど、そのときのぼくには選択の余地はないように思えた。
段ボール箱を開けて説明書きを読むと、ドライバーとハンマーが必要であることがわかった。駅前の商店街の100円ショップへ行くことにした。夕食どきの家々の隙間を縫って歩いた。すでに日が暮れてしまったことが訝しく思えた。あまり深く考えず真っ先に目についたドライバーとハンマーを買った。行きと同じ道を通って帰った。まるで密度の高い空気に抵抗されているかのようにゆっくりと歩く老夫婦を見かけた。その年老いた女性は前触れなく立ち止まった。すると男性も彼女を支えるようにして立ち止まった。足が悪いのだろうか。疲れてしまったのだろうか。しかしそんなことが、本棚を組み立てることといったい何の関係があるだろう。過ぎ去ってから振り返ると、老夫婦はすでにまた歩き出していて、夜空を見上げて微笑み合っていた。
説明書きを熟読しながら、板を順序通りに組み合わせていった。覚悟していたほどには力仕事は必要でなく、作業はスムーズに進んだ。二時間ほどで完成した。半年以上のあいだいくつかの山に分けて無造作に積み上げていた埃まみれの本を整理し、掃除機をかけた。できあがった空間に本棚を設置した。埃を払いのけながら本を本棚に詰めていった。そういえばこんな本も持っていたな、と驚きとともに思い出す本がたくさんあった。本を積んでいる限り、それらの本は奥の山の下のほうに収まってしまっていて、視界に入らなかったのだった。本棚に並べると、愛読書も、難解な本も、まだ読んでいない本も、高校時代の暗い思い出も、すべての本の背表紙が一望できる。そうして、読書の記憶の奥行きはかき消されてしまうのかもしれない。
本棚を買ってから、一ヶ月以上悩まされていた風邪が治った。たぶん本の山から発する埃が原因だったのだと思う。日常生活がまた少し快適になった。

『ボディ・アーティスト』ドン・デリーロ(上岡伸雄訳)

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

宙に投げられた言葉が、誰の元にも辿り着かず、台所の床に落ちる。その言葉は多くの場合そのままにされるけれど、何かの拍子に拾われ、またそこから会話が始まる。そういった空気の摩擦のような違和感。言葉が明確なかたちを帯びる、ざらざらした肌触りを感じさせる。それはまるで、長いあいだじっとしていたあと不意に動き出そうとして、慣れ親しんだはずの自分の身体に異物のような感触を覚えるのに似ている。言葉は自由な領域だと信じたくなるけれど、過信はあっけなく裏切られ、あるとき言葉はうねうねと自生し始める。
ドン・デリーロがどんな作家なのかは知らない。『ボディ・アーティスト』は言葉と身体を書き換え、そしてまた戻ってくる。人里離れて住む夫婦の朝の情景からはじまる。その手つきの繊細さ、高価な陶器を運ぶような緊張感に絡めとられる。その情景を支えている事実、男性と女性が一人ずついて、ダイニングルームで朝食をとるという事実が失われて、つまり男性が死んで、それも昔の妻のところに行ってピストルで自殺して、その場所に何が残るのか。でもその問いは撤回される。見知らぬ青年が現れる。家のなかから、二人だけしかいないと思っていた家のなかから。彼は一度に四つの単語しか話さない。「たくさん雨が降った」とか「海に孤立して」とか。言葉が前に迫り出してくる。彼女は言葉の断片しか話さない彼と会話する。その体験が結果的に、彼女の恢復をうながすのだけれど、それは、ばらばらになった言葉のがらくたのような愛らしさに気づき、そのことは身体についても、他者についても当て嵌まると気づいたということだ。小説の最後で、彼女は自分の身体を改造し、他者の記号を身にまとい、ローレン・ハートケとして舞台に上がる。
青年は、時間と空間を無秩序に捉える。彼には過去から未来へ一様に流れる時間はなく、ただ散らかった断片があるだけだ。彼は未来の言葉も過去の言葉も話すことができる。やがて誰かが口にすることになる言葉を発したり、過去にどこかで話された言葉をそのまま再現する。その影響を受けるかのように、語りは人称や時制の狭間をふらふらと浮遊する。彼女が自分の身体のところに戻ってくるのは、青年がどこかに行ってしまい、家に取り残され、言葉がなくなったときだ。確かに喪失と恢復があるのに、まるで微熱をかかえて日々を過ごすような、意識に留め金をあてるような気分がずっと続いた。

『八月の光』ウィリアム・フォークナー(加島祥造訳)

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

八月のうちに読みたかったけれど、九月になってもまだ半分くらいまでしか読めていなかったので、朝から夜遅くまで電車に乗り続けて(青春18きっぷ)、北陸の涼しげな夏の終わりの風景に目を逸らしたりしながら、一日かけて読み終わった。とても長かったので、疲れてしまったのも事実だけれど、読み終わったときにその長さは意義のある長さなのだと思えた。
ある夏にジェファソンで起こった一連の事件と、その周辺の人々のとった行動、そして彼らの背負っている過去が、どっしりした文体で語られる。『アブサロム、アブサロム!』や『響きと怒り』のような実験的な文体は用いられていないので、その分それぞれの登場人物の性質や来歴を誠実に描き出すことに重点が置かれている。『アブサロム、アブサロム!』や『響きと怒り』がひとつの家系に焦点をあてていたことを思い出せば、『八月の光』の人物たちが、アラバマからやってきた妊婦から黒人の血をひく謎の多い過去をもつ男性、牧師をやめてしまった老人、平凡な労働者まで各々まったくちがう身分や人生を抱えていることがよくわかる。
そういった意味で、『八月の光』はすごくまっとうな群像劇だ。殺人事件、新しい命の誕生、唐突な死といった出来事が、何度も時系列を遡りなおして別々の角度から語られることで、謎が解けていく。群像劇というシンプルな物語に、黒人差別やアメリカ南部の血縁といったフォークナーらしい要素が加わり、それを詩情に溢れた南部の夏の粘っこさを思わせる文体に通すことで、多彩な世界観を複雑に内包する小説になっている。
出生に謎を抱えアイデンティティが不安定なジョー・クリスマスや、自分を世間とは無関係な人間だと位置づけながらも人生の悲哀を感じさせるハイタワー牧師など興味深い登場人物は多々いるが、一見平凡に思えるバイロン・バンチもとても魅力的な人物だと思う。彼はジェファソンの工場で働く真面目な独身男性で、『八月の光』の事件に関わる積極的な理由はない。彼はただ、事件関係者の一人に名前が似ているというただそれだけで、事件の渦中へと引きずり込まれる。もし彼がちがった名前だったなら、きっと今も平凡な工場労働者のままだっただろう。バイロン・バンチは自分の果たせる役目を終えてジェファソンを去ることを決意するが、小説はそれを許してはくれない。彼は偶然に物語が駆動される『八月の光』を象徴するような登場人物だと言える。

いま僕は虚無の世界への入口にいるみたいなんだ。ひとたびこの境を越えれば、たちまち虚無の中に乗りこんじまう。そこでは樹は樹のように見えながら樹でない別の名で呼ばれ、そして人間はそう見えながらも人間でない何か別のものとして呼ばれる。バイロン・バンチは存在しなくてもいいしバイロン・バンチでなくたっていい。(549頁)

八月の光』は語りを重層化しないことで、茫漠とした現実を文体レベルで処理しない誠実さを保っているように思えるけれど、むきだしの現実に接近することは可能だという傲慢さが感じられもする。また、登場人物の行動をすべて過去に遡って解決するのは、軽薄なフロイト解釈のようなむずがゆさがある。『八月の光』は素晴らしい小説だけれど、『アブサロム、アブサロム!』や『響きと怒り』の前半のような文体の方が、結果的に壮大で悲惨な風景を表現できているのではないか、と思った。

お久しぶりです。ぼくはいま、東京で一人暮らしをしています。非常に面倒な空間に身を投げ出してしまったため、最近とても忙しく、読書時間もほとんど確保できていません。ゆっくりはてなダイアリーを書く時間もなく、やるべきことを一つ放棄することによってできた時間でいま書いています。
ずっとこのような生活を続ける気はないので、近いうちに挫折を演出して身を引き、秋ごろには落ち着いた生活に戻る予定です。それまでは少ない読書時間をどのようにすれば有効に使えるか、よく考えて過ごしていきたいと思います。

『城』フランツ・カフカ(池内紀訳)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

熱が出た。38度。少し喉が痛い以外は特に症状もなかったので風邪薬を飲む気になれず、部屋で一日中ふとんに入ったまますごした。天井を見たり壁を見たり本を読んだりして過ぎゆく時間を受け流していた。浅い眠りと曖昧な覚醒を交互に繰り返しているうちに、起きているときに考えていたことがそのまま夢の世界に繋がるようになった。強迫されたかのようにある一つの尺度について悩んでいたような記憶があるけれど、いったい何を評価するための尺度だったのか今はもう覚えていない。その熱も夜には下がり、次の日からは元の慌ただしい生活に戻った。
カフカの小説はいろいろなものに喩えられる。また、それと同時にさまざまな現象が「カフカ的」と形容される。これはカフカの小説が唯一無二であることの証左なのだけれど、それはともかく、熱があるときに見る夢がカフカの小説に似ている、というのは確かにそうだと思った。思考を方向づける基盤のようなものが失われてしまい、本来の目的とは関係のないことについて執拗に考えてしまう。はじめは城に辿り着くことが目的だったKは、城に入るためにはクラムに会う必要があることを知り、クラムの元愛人のフリーダと出会ってからは何とか彼女と生活しようと努力し、城に行くという目標は徐々にねじ曲げられていってしまう。
『城』という小説は、一つ一つの要素を意味づけて読んでも、小説の表面をさらうだけで終わってしまう気がする。例えば、城というのは何かのメタファーであり、それぞれの人物はどういった思想に対応づけられ、というふうな読み方は、カフカのたたみかけるような語りの勢いを矮小化することになってしまう。ではどう読むのが相応しいのか。過去にも引用したドゥルーズの言葉をもう一度引用してみる。

もうひとつの読み方では、本を小型の非意味形成機械と考える。そこで問題になるのは「これは機械だろうか。機械ならどんなふうに機能するのだろうか」と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、もし何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。こうした異種の読書法は強度による読み方だ。つまり何かが伝わるか、伝わらないかということが問題になる。説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、21ページ)

『城』を強度をもった文字の連なりとみなして、何かが伝わってくることだけを期待して読む。それは理想化された読書法にすぎないかもしれないが、そこには小説の読み方の一つの極限が示されている。そしてカフカの小説は、その読み方にぴったりと適応している。
13歳のときに読んだ村上春樹海辺のカフカ』のことを考える。誰の台詞だったかすら忘れてしまったけれど、物語の重要な部分で、誰かが「世界はメタファーだ、田村カフカくん」と言い放つシーンがあった。タイトルにカフカという名前を含んでいるとおり、『海辺のカフカ』は『城』と同様に安易な解釈を拒んでいると感じた覚えがある。エディプス・コンプレックスの構造をあからさまに採用しながらも、細部に散りばめられた不自然な謎が、単純な構図に回収することを許さなかった。あの小説を初めて読んだとき、これはいったい何なのだろうという居心地の悪さをずっと感じていた。ミステリ小説のように提示された謎が解決されないまま終わってしまったとき、2冊の新潮文庫がいびつな塊のように見えた。
では、「世界はメタファーだ」という台詞はどういう意味なのか。『海辺のカフカ』はメタファーであることを拒んでいるように見える。その台詞がどういう文脈で発されたのか忘れてしまったのではっきりしたことは言えないけれど、おそらく村上春樹のメタファーは、純度が増すにつれて対応物を失い、意味をもたない機械になるのではないだろうか。だから世界はメタファーであると同時に、何も表現しない装置にもなりうる。カフカの小説も、その寓話性に反して、教訓や風刺は表現せず、Kの脈絡を失った体験がただ並べられている。メタファーは極限において意味のない強度となる。ここまで考えてひとまず納得する。しかしこれも、『城』の都合のよい解釈のひとつにすぎないのだった。

近況報告

新大阪から東京へ向かう新幹線の座席にぼくは座っている。その席は窓に面していて、隣は空席だ。窓を覗きこむ。今まで何度も見たことがあるような景色が広がっていることに安堵する。視線を膝の上の本に戻す。『青い野を歩く』のページをめくる。そうやって少しずつ時間を消費していく。故郷が遠ざかり、東京が近づく。
足を動かすと何かにぶつかる。がちゃんとガラスが割れるような音がする。足元を見るときらきらした透明の破片が散らばっている。まずいと思って右足を持ち上げると、黒い靴に破片がひとつ、突き刺さっている。それを引き抜くと同時に夏の記憶に襲われる。プールの底に仰向けに寝転がって空を眺めている。乱反射した太陽光が視界いっぱいに散らばっていて自分自身もばらばらの破片になる。この破片が棘になってやがて年をとったぼくを戒めるだろう、とそのときのぼくは思った。それが今なのだろう。
窓から富士山が見える。のっぺらぼうで恐ろしい山だな、と思う。真っ白で表情が読めず、次にどんな行動をとるかわからない怖さがある。この山が次に噴火するのはいつだろう、ととりとめのないことを考える。前日まで平然としていて、その日になると急に猛りだし、周囲の住居や工場を呑みこんでいくのだ。火山灰が空を覆い、冬のどんよりとした空が再現される。故郷を失った住民たちは未来を探して新たな都市を造る。
アイルランドの風景を覗きこむとき、風景のざらざらした手触りを感じると同時に、自分と風景のあいだに膜が差し込まれていることに気づく。自意識が固定されてしまっていて、外部には間接的にしか触れることができない。今日の午後から先はすべて白昼夢だ。合格発表が高校時代を切断してしまう。
綿密に調整を行ってきたつもりだった。合格の確率が7割、不合格の確率が3割になるように勉強量を調節した。将来のことを考える時間のうち、7割を合格だった場合に、3割を不合格だった場合に充ててきた。そして3割の可能性に賭ける。浪人生になって書店でアルバイトしようと考える。紙とインクの匂いに包まれて、力仕事に精を出す。自分の生まれ育った街に親しみ、狭くて小さな夢を捏造する。行き詰まった人生の隘路を探す。
横浜を過ぎたあたりで、急に合格と不合格の向こう側が前方に迫り出してくる。絶望も希望も打ち砕かれて、真っ白で穏やかで生ぬるい空間が現前する。調整は本当に完璧だっただろうかと心配になる。自己採点は予想される合格最低点を大きく上回っていたのではなかったか。ただ非現実的な妄想で気分を落ち着けていただけではないのか。不合格で得た一年間で何ができるというのか。
あくびをする。少しでも時間を引き延ばそうと努力する。もうしばらく縺れ合った気持ちのままでいたいと思う。


東京に引っ越すことになりました。プロバイダの工事が遅れるらしく、しばらく更新が滞るかもしれませんが、きっとまた戻ってきます。